2003.12.23     
会 報 TUWVOB会 No.32
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きつかった!  暑かった!  でも本当に楽しかった!!
<ワンゲル卒業30周年記念>シルクロード探検・・・・別名<老練合宿>
10期 黒田和雄

メンバー  昭和46年にワンゲルを卒業した同期の内9名+夫人1名
      黒田、菅原、杉森、高野・夫人、富並、野家、野本、藤田、若佐

  8月11日(土) 成田発→敦煌→鳴沙山登頂→敦煌(泊)
  8月12日(日) 莫高窟見学→鉄道の敦煌駅→(車中泊)
  8月13日(月) トルファン駅→高昌故城→ベゼクリク千仏洞→火焔山→交河故城→ ウルムチ通過→天池(パオに泊まる)
  8月14日(火) 天池→ウルムチ見学→カシュガル泊
  8月15日(水) カシュガル→カラクリ湖に向うが橋流出で断念→カシュガル泊
  8月16日(木) 香妃墓→バザール→職人街→東湖(詩朗読)→日中友好晩餐会→ キャンプファイヤ→ウルムチ
  8月17日(金) ウルムチ→北京 市内観光
  8月18日(土) 北京→成田 解散

10年前に卒業20周年記念の二口集合時に交わした約束。「シルクロードに行こう!」この計画を口にしたときは「本当かな? 夢かな?・・・・」と、皆半信半疑だったが、ワンゲル仲間の強い絆か、一人一人の思い入れか、昨年から準備が進み、この夏、見事実現!

「日航のコンピュータトラブル」で 成田出発が1時間以上遅れるアクシデントで始まった旅は、北京での敦煌行きへの乗り換えにフルペースならぬ、「バッグ抱えた空港内ダッシュ」が最初の試練。現地ガイドの献身的協力で この危機を何とか潜り抜け敦煌ヘ。

鳴沙山では、藤田の「ワンゲルの面子にかけて」との声に、蛮勇を振るって、砂山の直登に挑戦。頂上から眺めた夕日に染まるゴビの荒野は忘れられない。とはいえ、この「体力過信」による筋肉痛が、この後尾を引く。

観光拠点はどこも子供達の「お土産売り」攻勢がすごい。どこに行っても子ども達に囲まれるのが何故か杉森。体形なのか 醸し出す雰囲気なのか、いつも”お金持ちの社長さん”。

通常のシルクロードコースにオプションを付け加えたこともあり、列車内の車中泊が入ったり、6時間以上の砂漠のバス行軍があったり、揺られているだけでも大変。加えて時期は 最も暑い8月。 交河故城ではなんと48度の灼熱。ここを見るには1時間は炎天下を歩く。歩く以外手段は無い。ミネラルウォーターを、2本バッグに詰めて、日傘をさし、旧日本軍さながらタオルを首の後ろに当てて。それでも本当に熱かった。唐代の城跡であるが、印象は ”強烈な暑さ”。

この時期、シルクロードはスイカ、メロン、干しぶどう。どの果物もおいしい。地下水脈(カレーズ)のつめたい水を飲んで、極上のハミ瓜を、おいしく頂いて。だが、待っていたのは強烈な下痢。事前検討会で”最も注意をすること、と確認し合い、野本はおばあちゃんからの秘伝の梅エキスまで持ちこんでの対策も、レベルを超えた強烈な下痢で、あえなく降参。

若佐も現地の女医さんに見ていただいて、ようやく生気を取り戻す。この難を免れたのは高野夫妻と黒田のみ。それでも長年、ナイジェリア等、僻地勤務が長い高野の話では、中国の衛生事情は格段に良い、とのこと。紅一点 高野夫人は事前説明会での現地トイレ情報を聞いて、”特性スカート”をつくって臨んだとか。スカートの出番が無くて良かった。

このコースは高低差も大きく 冨並自慢のGPS(標高計)で測ると 敦煌の海抜2400mに対し、トルファンはなんと海抜150m。ここはユーラシア大陸のオヘソ。そこから次に2000mの天池ヘ。天山山脈のふところ、神が創ったか“天の池”で、ウイグル娘の踊りにうっとりするも、酔うほどに皆に乗せられ、出ました!菅原のゲロ踊り。この踊り、なぜかアジアでは受けるとか。パオの中は歌と踊りの国際交流。久々のテント(パオ)の一泊。早朝、天池をのぞんでのキジ打ちは気分爽快。

中国の西端、カシュガルからいよいよパミール高原にむかう。

目指すは3000mを超える高地にあるカラクリ湖。ホテルで前日の雨で道が荒れているかも、との情報に一瞬不安がよぎるが、空気枕そのものの酸素バッグを人数分積み込んでいざ出発。バスで登って標高2750m地点で、突然行く手の橋が落ちている。自然には勝てず、幻のカラクリ湖となる。いつかもう一度!との思いを胸に撤退。

帰途、結婚式を見つけて、飛び入り参加。プレゼントに日本から持っていった飴玉一袋。スイカとナンの歓迎を受け予期せぬ感激。

夕食までに少し空いた時間を有効にと、カシュガルの公園、東湖で見かけた沙棗(すななつめ)をきっかけに、湖畔の四阿(あずまや)で野家が井上靖のシルクロード詩集より「カシュガル」を朗読。わが同期に文学を解する者がいて感激。

夕食は子羊の丸焼き。料理もさりながら、飛び入りで若佐団長が高らかに宣言した 「日中友好宣言」 、続けて皆で歌った「北国の春」に絶大な拍手と合唱。飲んで、踊って、歌って、それでも足りずに、遅延飛行機を待つ間、畑の中のキャンプファイヤーでまたまた歌って。

バスの中、パオの中、野外レストラン、畑の中。随分歌う機会の多い旅だった。歌はワンゲル時代に覚えた歌ばかり。途中、ララララ…が多いのは大目に見よう。そして最後は部歌。

食べて、飲んで、踊って、歌って。かけがえのない仲間と、またとないチームワークで、忘れられない旅となった。さて、次は35周年か、40周年か。今回はそれぞれの事情で残念ながら、本当に残念ながら参加できない仲間がいたが、次はもっと多くの仲間と旅をしたい。それまで健康でいよう。

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卒業30周年OB山行第4弾  一切経山     2001.09.08(土)09(日)
8期 相原 敬

【参加者】 健一、千代子、桃谷夫妻、勢、原田、富川 (9期7人)
        拓哉、おぎゃ、三日月、美恵子、前田夫妻、根岸、濱、相原(8期9人)

9:41≠大宮11:50≠13:05福島13:25=14:05兎平p-14:50吾妻小富士(一周)15:20-16:00吾妻小屋16:30-16:50栂平園地-17:30吾妻小屋19:10=高湯温泉=22:30吾妻小屋

吾妻小屋7:15-兎平p-8:20酸ケ平避難小屋9:00-9:35一切経-10:10避難小屋10:20-10:40鎌沼10:50-11:05避難小屋(L)11:50-12:45兎平p12:55=13:20高湯温泉15:00=15:20福島15:30≠17:55


 8、9期合同の30周年記念山行を晩夏の山で毎年行なって、今年で4回目になる。今回は吾妻でやるという連絡を健千代から受けたのは6月に入って間もなくのことであった。相原のように何もしない者でも連絡メールが飛び交う頃になるとそわそわし始める。

 大宮に出て新幹線で首都圏組と一緒に行動することにした。大宮駅のエレベーターで原田と偶然合流し、前田夫妻と根岸の乗るMaxやまびこに乗り込んで一年ぶりの再会を果す。勢は青春18キップで我々よりも先に福島駅に来ていた。

 福島駅まで迎えに来てくれた健千代車と富川車に分乗して賑やかに吾妻スカイラインを辿り、広大な浄土平を通り越して兎平Pに到着すると散策を終えた桃谷夫妻が暇そうに合流する。拓哉車を待つ間に吾妻小富士にでも登ろうかという事になり、全員でダラダラと話しながら運良くガスが晴れた山頂を一周した。吾妻小富士から一切経の全容を写真に収めたが、非情にも天候は下り坂であり試練の時は刻々と近づいていた。

 兎平の吾妻小屋直前まで車で入り直すと拓哉と美恵子が外のベンチでスケッチなどしており、濱とおぎゃはお茶をしていた。三日月は例によって何処かその辺の山から湧き出して来ていた。

 全員勢揃いしたところで明日の足慣らしにと一時間コースの栂平園地を散歩する。行き止まりにいくつかベンチが設えてあり、そこで貴重なビールを仲良く分けて飲む。吾妻小屋はアクセスはいいし、料理はうまいし、主人は親切、落ち着いた雰囲気はお薦めですよ。

 アカデミックなテーブルは絵の話、ワンゲルらしいテーブルは話題定まらず、賑やかに夕げの時は流れて行った。有料道路のゲートが開放されるのを待ち、二台の車に分乗して濃いガスの中をソロソロと高湯温泉に下って行く。硫黄臭の強い露天風呂で至福のときを過ごし上機嫌で帰る途中、後続の健千代車が忽然と消息を絶った。山にはガスが溢れているというのに健千代車にはガスがなかった。OB山行史上特記すべき衝撃的なチョンボに皆一瞬言葉を失う。 神田川の詩に乗せて風呂上りの身体がどんどん冷えて行くのが恐かった。拓哉車のナビを頼りにホワイトアウトスカイラインを上がったり下りたり、最終的に小屋に着いたのは十時半だった。拓哉とグレまくったが前向きに考えればこんな楽しいハプニングはないのかもしれない。しかし現実は、そぼ降る雨音を聞きながら、濡れた身体を静かに布団に潜り込ませる
しかなかった。

 じっくり眠って5時半起床、6時朝食。台風の影響で前線が活発になり天候が回復する筈もない。予定していた東吾妻より一切経の方が登りやすいとの結論に達し、取り合えず避難小屋のある酸ケ平をめざして一見アバウトな連中がまとまって行動を起す。思い起こせば記念山行は安達太良と平は絶好の快晴に恵まれたが、鬼怒沼以来おかしくなった。

 避難小屋でコーヒーをした後、砂礫帯の道をゆるゆると登り意外と順調に登頂した。山頂は猛烈なガスに加えて風が強い。とにかく記念撮影だけして風雨に追い立てられるように少し下れば風は弱くなった。初参加の前田奥と桃谷奥にはちょっとしょっぱかったかも知れないが、次の山行に期待しましょう。
 避難小屋をベースに次は鎌沼のピストンだ。酸ケ平は風もなく時々ガスが申し訳程度に晴れて、池塘や緩やかな草原が目の前に広がる。エゾリンドウの蕾、ガンコウランの実、ウメバチソウが湿原に花と実を敷き詰めていた。シラタマノキの実のサロメチルっぽい味は昔の記憶を断片的に浮かび上がらせてすぐ消えた。

 漣を立てて海のように広く感じた鎌沼もガスが晴れて見ればこじんまりとした可愛い沼だ。対岸には東吾妻がゆったりと・・・ 見えない。
 ガスの中、木道を思い思いに不揃いにあるいはきれいに並んで歩いて行く。がやがやとうるさくもあり、それはまた絶対的な山特有の静けさに包まれてもいた。腹ごなしも適度に出来たしそろそろ小屋に戻って楽しいランチタイムにしようか。満腹になれば次は温泉だ。浄土平を見下ろしながら兎平Pまで幾分明るくなった尾根を軽快に下った。

 硫黄の露天温泉の前には水彩を施したようなススキの穂がそよそよと微風に揺れて、初秋の静かな時がゆっくり流れる音がしていた。ロビーの一隅に陣取って控えめなビール反省会となる。年一度のOB山行もフィナーレを迎えつつあった。二日間はあっという間に過ぎて行く。固い握手を交わし、ある種の不思議な勇気をもらって北の仙台石巻へ 南は宇都宮、神奈川、千葉埼玉、東京、群馬へとそれぞれの日常に戻って行った。

 幹事さんありがとう。次回は30周年もいよいよ第5弾ですか、それとも35周年。出来ることなら明るい陽射しの中で、みんなで輪を作って楽しいお昼にしたいなぁ。翌々日に『NY超高層に航空機突入テロ』。

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OB山行(21期・22期) 丹沢「大室山」 1,588m
平成10年の二口以来3年ぶりのOB山行
22期 西川
【行程】 平成13年6月9日(土) 大石キャンプ場集合〜夜まで宴会
      6月10日(日)大石キャンプ場発(車)8:10==用木沢出会発8:20—:9:30犬越路9:45—11:15大室山11:45—13:10用木沢出会着
                                      中川温泉「ぶなの湯」立ち寄り後、解散

【参加者】<21期> 千田、冨士原  <22期> 石川、高橋、手塚、西川

 これまで断続的に実施してきた21期、22期周辺のOB山行を3年ぶりに行いました。場所は東京近郊在住者が気軽に参加できるという理由で「丹沢」を選びました。21期〜23期あたりに広く呼びかけたのですが、参加したのは常連の6人。前回の二口ほど人々の参加意欲をそそる「懐かしさ」のようなものがなかったことと、梅雨入りしたこの時期に日程を組んだことが参加者を少なくした原因かもしれません。とはいえ、人数は少なければ少ないなりに、参加者は、和気あいあいと「焼肉パーティ」、ではなくて「OB山行」を楽しんだのでありました。

 幸運な(不運?)ことについに雨は降らなかったため、二日酔いでダウンした1名を除けば、せっかくOB山行に来たのだから、という理由で残るメンバーはまじめに山頂を極めたのでした。ただし、「檜洞丸」に登るという当初の計画が大幅に修正されて「大室山」になりましたけど。

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26期OB山行報告(白馬岳)平成13年9月1、2日
平成13年8月31日  26期 北村
平成13年8月31日
 夜も更けてきた頃、中央高速を松本方面へ向かう1台の車。運転手は北村、毎日のハードワークにちょっと疲れ気味である。助手席は森、携帯電話を片手に、遙か後方を走る車の伊田と話しをしている。「俺ら先に行くらー、先に寝るけん、明日の朝会おうぜ、、、。」

平成13年9月1日
 朝4:00起床、雅浩、伊田、小泉を捜索するも、まだ辺りは暗くて、よその人に迷惑かけるおそれもあり、他の車中を覗くこともできずにいた。ふと横を見ると小汚い2〜3人用のテントが1張り、もしやと思い声をかけると案の定、伊田と小泉であった。雅浩は?と横の車の中を覗くと、死人のように座席に横たわる雅浩発見。ところが、昨晩は3人とも3時頃まで飲んでいたとのことで、ほとんどまだ酔っぱらっている状態である。今日は白馬経由で鑓温泉小屋まで行くハードな工程のはずなのに、端から登る気は無いような状況である。(とんでもない)

結局、予定コースを行くのは森、伊田、北村の3名となり、残りの雅浩と小泉は小日向のコルから直接鑓温泉へと向かうイージーなコースをあっさりと選択した。ともかく、まだ半分眠っている伊田をはげましつつ、平田が昨日雨の中、単独で登っている大雪渓へと向かう。

本日は正しい日本の秋晴れという感じで、マイルドセブンの広告のような青空である。白馬尻荘を過ぎ、右岸に沿ってしばらく行った所からアイゼンを付け大雪渓に入った。さすがに時期も遅いため、雪渓も汚れ、落石もあるが、非常に快適な登りである。ふと、後ろを振り返ると、なんと伊田が登りながら眠っている。大丈夫か?と声をかけると「OK!」との返事。とりあえず、前に進んでいるのでいいかと思い、先へ進む。

途中、砂防堰堤の工事を行っている現場で、突然伊田が取材をはじめる。―ちなみに彼は「週間金曜日」に勤めている。(そのうち掲載されるのだろうか?)

砂防堰堤の現場付近より雪渓にはサヨナラして、左岸に取り付き登る。途中岩室跡、お花畑避難小屋を通って行くと、上部に大きな岩塊が見えてくる。左を見ると、これから向かう杓子岳、白馬鑓ガ岳が良く見える。そこから、もう一踏ん張り行くと村営の頂上宿舎に到着した。ほっと一息いれて、ふと横を見ると、伊田がベンチの上ですでに鼾をかいて熟睡している。まだ、先は長いので、早めに行こうと、途中ザックをデポし、空身にて白馬ピストンに向かう。森と相談の上、伊田も「デポ」して行こうとするが、起きあがって眠りながらもついてくる。途中山上の要塞のような白馬山荘を通り抜け25分ほどで白馬山頂(2932)に着いた。

  少し雲は出てきたが、やはり眺めは良い。剣岳や槍ヶ岳も良く見える。遠くは、白山まで見えた、、、ような気がした。ふと足元を見ると、山頂にある展望表示盤の基礎の上に横たわる伊田の姿があった。伊田をたたき起こして、来た道を戻り、ザックを回収して先を急ぐ。

杓子岳と丸山の最低鞍部ですでに12時、後の行程を考えた結果、杓子岳頂上はパスし右手の巻道へ入る。祖母谷方面は緩やかな傾斜の別天地のようで、いつか下ってみたい気分にさせる。(森と、いつか黒部渓谷を歩こうぜ!ということで盛り上がった)

足下にはミヤマムラサキなどの小さな花が咲いている。小鑓にだまされつつも、なんとか鑓ガ岳頂上(2903)へ到着。森も北村も久々の山で、疲労困憊である。伊田に写真を頼んだが、彼は眠りながら撮ってくれた為、出来た写真はボケていた。

この頃から、周囲はガスにつつまれはじめたが、後は鑓温泉に下るのみ。ここで伊田はようやく眠りから目覚め、突然走り出したかと思うと、あっという間に行ってしまった。鑓温泉には午後3時着、1日先行した平田、小日向経由で来た雅浩、小泉と無事合流した。鑓温泉は猿倉からでも山道を4時間ほどかかる山の出湯であり、露天の湯船からは、妙高や高妻山などが目の前に見える。今日の最後の下りで足はガタガタとなり10時間行動の疲れはピークに達したが、少しは疲れも癒えるというものである。山小屋での食事のあと、久しぶりの再会に大いに盛り上がる。今日、千葉を出発し、鑓温泉へ来るはずの小松だけは、猿倉荘泊まりとのことで残念だった。(皆、小松からの電話に耳を疑った?)

平成13年9月2日
 翌朝は朝日を露天風呂で迎え、早々に下山、途中で小松と感激?の再会、一緒に下山する。(彼は小日向のコルまでも行かず下山する事となってしまった。)

帰りは八方温泉、小日向の湯へ寄り、来年の再会を誓ってそれぞれの帰途についた。森、北村は、前日の10時間行動の疲れがまだとれないため、蓮華温泉にて療養後、さらに柵口温泉にて疲れを癒し、翌日のんびりと帰った。

ところで、来年のOB山行は平ガ岳ということになった。中の俣ルートというのがあるらしいが、使用禁止の噂もあるし、それぞれ体力の衰えた我々の運命や、いかに?!?

コースタイム
8月31日(金)   : 西国分寺駅21:00−(中央高速経由)−猿倉24:30
9月1日(土)晴れ : 猿倉荘5:10−白馬尻荘6:00−村営頂上宿舎9:45−白馬岳10:40−丸山・杓子岳最低鞍部11:40−杓子沢コル12:20−白馬鑓ガ岳13:30−鑓温泉分岐13:50−白馬鑓温泉15:00
9月2日(日)晴れ : 白馬鑓温泉7:00−小日向山コル8:10−猿倉荘9:30→帰宅

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夫婦で登った九州の山
第11期 (昭和47年卒)秋田 修

5月2日(水) 羽田AP-大分AP-(レンタカー)-尾平
 祖母山麓尾平青少年旅行村泊:廃校を利用した宿泊施設で教室を改造しただっだ広い部屋に二人きりで宿泊。夕食はイノシシ鍋がでて、これは結構美味しくて何杯もお変わりをしてしまった。 我々以外は中高年の登山グループが賑やかに宴会をしていた。

5月3日(木) 祖母山登山
 何とか天候にも恵まれ順調に山頂までたどり着いたが、せまい山頂は人で埋まっていた。なんと山開きの当日でこれらから山開き式が始まる直前だったのです。やぶかげでは神主が衣装替えをしている最中、幹事役が登山者名簿の記入を大声で指示、登山記念のバンダナの配布等々騒々しい限りだったので、名簿への記入、バンダナの入手をして早々に山頂を退却。

 下山後、青少年旅行村に戻り風呂で汗を流し久住高原まで移動。久住高原では安い宿泊所を確保できずホテルを予約。夕食は本格的フランス料理で久住山を望みながらワインを傾けるちょっとリッチな気分を味わう。朝食時間が遅いので、久住山登山に備えて朝食に変えて弁当をお願いしたところ怪訝な顔をされたが何とか対応してもらえた。

5月4日(金) 久住山登山
 峠に車を駐車(駐車場は広かったがほぼ満車状態)して久住山を往復。天候もまずまずでトレッキングを堪能。下山後、宿泊先の黒川温泉へ移動。旅館は満員で黒川温泉の唯一の民宿へ。まわりの温泉旅館にかこまれた民宿は前日のホテル泊もあり少しわびしい。黒川温泉は温泉旅館の露天風呂巡りができるので食事前にめぼしい露天風呂3軒を家内と二人ではしご。それぞれに趣向をこらした露天風呂でこれは充分に堪能。

5月5日(土) 由布岳登山
 当初は予定に入れてなかったが、車から見た由布岳の容姿が魅力的だったのと、家内の体力もまだ残っていそうだったので行きがけの駄賃で由布岳登山を敢行。ずっと登りが続くが歩きやすい道で無事双子峰の鞍部まで到着。双子峯は結構スリリングな登りでこれも堪能。湯布院温泉で汗を流して大分空港まで。家内は東京へ、私は単身赴任先の東広島市へと別れ別れに。

(付 録)
 今年は九州登山以外に9月22日−24日に、家内、次男と北岳、間の岳を登頂。この3日間は雲一つない好天で、北岳肩の小屋泊では山嶺に沈む夕日と山嶺から出る朝日を拝むことができた。北岳、間の岳山頂での360度の景観はすばらしかった。北岳はワンゲル3年の夏合宿での行程最後の山だったので約25年ぶりの山頂は感慨深いものがあった。

 今年の年賀状は富士山をバックにした北岳山頂の写真を使ったので年賀状を受け取った方はそれを見てください。来年は宮之浦岳をぜひ登ってみたいと思っています。

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訃 報
「報告」を作り始めた時、北条真人くん(8期)が4月5日にご逝去されたという悲報が入りました。
ワンゲルの誰もが知らないうちに、一人で逝ってしまった北条。みんな君を忘れはしない。

<北条くんへ  8期の友より>

 4年前に福井の寺(満願寺)で会ったのが最期となり残念です。半年間も知らずにいたことが悔やまれ、何とも言葉がありません。
卒業時に作った記念アルバムを開いてみました。(相原)

 - 卒業証書 -
 「ワンテンポずらすその話しぶりに、まひとちゃんのいる所いつも笑いが漂い我々のクラブの太陽でした。スタンツ、コンパでは皆を必ず満足させましたが、時々ロマンチシズムをちらつかせるところもあり、どんな母ちゃんをつかまえるやら、判断が難しいところです。
卒業アルバムに寄せた北条君のメッセージ --- ことばのない世界 ---
     ことばのない世界
     僕のユートピア
     そこには心と心のつながりがある
     体と体のぶつかり合いがある
     求める心と求める心がそのまま結ばれる
     ことばを捜さなくてもよい
     ぴったりしたことばが見つからず
     心と心の間になにか大きな壁があるような
     そんなさ淋しさがない
     心と心はひとつに解けあう
     とけあったあとには
     ひとつのやすらぎがある
あゝどおして
どおしてこの世には
ことばがあるのだろう
ことばは沈黙から
友を奪っていく
沈黙はことばに比べて
あまりにもめだたない
ひとはことばにあつまる
むしがひかりにあつまるように
むしはそのまま死んでしまう
ことばというまぼろしのつながりのなかで
ことばのない世界
 住職になって皆が成仏出来るよう見届けてくれるはずが、一番先に逝ってしまうとは未だに信じられません。現役時代いつもこだわっていた日本のモンブランに、2年の夏合宿後に4人で縦走したことが、笈岳の強烈な藪漕ぎの記憶と供に昨日のことのように思い出されます。誰からも愛され、限りなく純であり続けた北条を偲んで、白山山行を是非とも実現させたいものですね。(水上)
 年に1度の年賀状での便りに代わり、還浄との連絡で、心おだやかでないものがあります。人生についての話を一度うかがいたいと思っていたのにチャンスがなくなり残念です。今思えば、会得したときの一切経山での写真をいただいたのと、今年のOB山行での一切経山を雨の中を登ったことに、何かの因縁を感じるものがあります。冥福を祈りつつ、来春には追悼山行をかねて墓参りを計画しましょう。(三日月)
 10年ぐらい前のことでしょうか。確か息子さんが早稲田に合格なさった直後だったと思います。上京の折ひょっこり家に見えました。主人は会社だったので上大岡の会社まで案内して三人で会いました。その帰り、私は新横浜まで彼を送って行きました。地下鉄で一時間ぐらい揺られたでしょうか、穏やかな沈黙を共有しながら時々お互いゆっくりとした調子で会話を楽しみました。新横浜でお茶を飲み、そして別れました。あの時の彼の深い瞳、いつまでも忘れません。(佐藤良子)

近況報告

8期(昭和44年卒)前田吉彦です

大学卒業後、当時の半月分の給料に相当する高価な登山靴を買い、その後ずーっと履き続けた。その靴で名山と言われる山にも登ったし、きのこ採りや沢釣りにもおおいに役立った。たまにしか使わないとはいえ、さすがに30年、ビブラム底も磨り減り、手入れの悪さもあって糸切れ多発でついに断念。一昨年、再び高価な登山靴を買ってしまった。わざわざ神田まで出かけ、何軒もの店を回ってされこれ比較し、結局昔風の登山靴を。今後どれだけ山を登れるのか分からないが、願わくばこの靴を履き潰してみたいと思う。だけど実際には、買い替えることなく終えるのかもしれない。

最近、同期の北条真人君の悲報に接し、彼の茫洋とした風格と朴訥とした語り口を思い起こしながら、新しい登山靴の行方を占った。北条真人よ、安らかに眠れ。

28期(平成1年卒)樺元淳一です
 H13年4月に高知から埼玉に引越しました。今は主に地すべりに関する業務に携わっており、ワンゲル時代とはまた違った目で山を見ています。沢登りを通じてしりあったかみさんは、結婚したらアウトドアライフを楽しむのを夢みていたようですが、休日はごろごろしている父さんに不満なようです。自慢じゃありませんが、結婚してから仕事以外で山へは一歩たりとも足を踏み入れていません。
23期(昭和59年卒)松林隆幸です

名古屋市で高校の教員をしています。2年ほど、情報処理教育センターに出向していましたが、この4月より、山田高校に転勤になり、かつての教え子といっしょにアウトドア−部の顧問をしています。最近の高校生には、山に登ることは人気がなく、各学校人集めのため、こんな名称をつけています。(しかし、いわゆる進学校の割には、結構部員が集まっているから不思議です。)

 山は、生徒の付き添い(と言っても、日帰りの山行などは、ほぼ同じ荷物なので、生徒のハイペースにこちらが連れて行かれるようです)がほとんどですが、今年は10月の体育の日の連休に、同好の先生と「甲斐駒」に登ってきました。(学校でも中高年には人気があります。)天気は高曇りでスカッとしませんでしたが、北沢峠より上の紅葉がみごとで堪能しました。来年は「千丈」へという話になっています。 我が家の方は、双子が3才になりました。先日、自宅近くの標高400mほどの裏山に連れて行きました。落ち葉を集め始めたり、どんぐりを拾ったり、道草ばかりでなかなか進みませんでしたが、なんとか最後まで自力で登りました。すれ違うハイカー(ほとんどがおじいさん、おばあさん)に、誉められて満足のようでした。かなり疲れたようですが、「またお山に行こう」と言ってくれているので、まぁ、よかったのかなと思っています。みなさんとも山を登る機会があればと思っています。

8期(昭和44年卒)渡辺幸英です
 相変わらず、なんだかんだと慌ただしい毎日、山にはさっぱり行きませんが、東京見物であちこち歩き回っています。
7期(昭和43年卒)山口 正雄です

現在は駒井鉄工に勤めています。健康のため(?)時々思い出したように山歩きを楽しんでいます。
今年は工場の全面移転作業があったため一度行ったきりですが、以下はその記録(?)です。

7/20(祝)上野から新幹線を利用して(贅沢だなー)長野経由で上高地入り。昼食後のんびり歩き出して4時半頃に涸沢着。その日は前日に新装オープンしたばかりの涸沢小屋に泊まる。超満員で、予約したにも関わらず、部屋ではなく食堂の床に寝せられた(横になっただけでもましかな)。

7/21(土)早々に小屋を出て、奥穂高に向かう。穂高山荘で一服。美味しいと聞いていたコーヒーを飲んだが美味くなかった。気分を悪くして、奥穂高岳に登る。天気は上々。常念、槍ほか視界も上々。少し気分が晴れる。小休止の後、前穂高に向かう。紀美子平に荷物を置いて、前穂高を往復。のんびりしたいがその日のうちに帰らねばならないので、昼食の後、岳沢経由で上高地に下りる。岳沢の下りではバテバテ。やっとこさたどり着く。年かナー。

38期(平成11年卒)安中さやかです
 いつまで、こんな生活(自由気ままな学生生活)を続けるのだろうと思いつつ、今年も目一杯楽しませていただきました。四万十川下り、飯豊主脈縦走、面白山ー船形山踏破、などなど。お付き合いして下さった皆様に、感謝感謝です。
28期(H1年卒)武井圭吾です
 このところ子供の世話ばかりで、とんと山に行っていません。(車で登れるところは行っていますが..)同期ではほぼ毎年山に行ってるようなので、そろそろ復活しようともくろんでいます。
5期(昭和41年卒)藤田凱己です

小生定年を11ヶ月残し三洋電機(株)を9月20日付けにて辞めました。自分の好きで(中国、香港が好きなので、募集している会社があった)2000年6月21日付けにて東京パーツ工業(株)へ出向し中国広東省汕頭市の工場へ勤務しておりましたが、色々事情があり1年(2001年8月31日付け)で辞め、三洋電機へ戻りましたが、残り11ヶ月窓の外にいるより、以前より引き合いのあった香港の会社へ入る事にしました。

9月26日に赴任し、実質的には10月1日から(実際は10月3日)から勤務しています。従いやっと2ヶ月経過するところです。

皆から9月20日で辞め9月26日に香港へ行くとはずいぶん段取りが良いねと言われております。小生の三洋電機退社の際は東京近郊(瀬尾さんは仙台から来てくれた)の41年卒の人に激例会を開催して頂き感謝しております。

  会社概要: 三洋半導体(香港)有限公司の代理店です。三洋半導体は小生が以前駐在していた会社です。従い会社は香港にあり、単身赴任しております。簡単に言うと日本から香港へ出稼ぎに来ている訳です。staffは香港人で、日本人はもう1名居りますが、仕事が異なるため殆ど会いません。従い会話は英語となり一日中日本語を話さない時があるので、無性に日本語を話したくなります。

中国の客回りの時は北京語となり、汕頭で少し勉強していたのですが、夜飲みに行った時は問題無いが、仕事では問題あります。英語も下手なので現在lessonに通って居ります。59歳の手習いでどこまで上達するか疑問はありますが、生涯勉強と思い頑張っております。本来であれば広東語、北京語、英語全て知っていれば良いのですが、小生の頭ではそこまで回らない。

 香港へ来る時は連絡下さい。
事務所電話番号:001-852-2950-2100(小生直通) 香港携帯:001-852-9687-6568(事務所では電波状況が悪く通じない事がある) 中国携帯:001-86-136-5140-7626 e-mail kfujita@protechhk.com
(通常は会社で見ているのでこちらへ流してもらった方が良い、早い)

 香港と中国でchipを切り替えて使用しています。どちらかに掛ければ繋がります。

19期(昭和55年卒)川島芳之です
   一昨年の3月に、埼玉から大阪に単身赴任しております。会社(富士銀行)も、ニューヨークテロ事件で同胞を失い、来年4月の第一勧銀、日本興業銀行との統合を控え、大幅な赤字とリストラを断行する動きあり、前途多難です。
  小生は、今、「走るマラソン菌」が身体中にはびこり、毎月のように大会に参加しています。昔の亀岡神社の階段をぼっかしたり、深夜マラソンを走ったりした気持ちがよみがえってきました。この1年間(昨年の12月から11月まで)にフルマラソン4回、ハーフマラソン8回、15K1回、10K1回と計14回参加しました。フルマラソンのベストが3時間21分39秒、ハーフは1時間30分37秒と昔以上にレベルが上がってきました。登山はしばらく途絶えていますが、今は全国組織の走友会の人たちと来年6月のサロマ湖100K走を目指して日々練習をつんでおります。10月に大阪吹田の万博公園から、兵庫県美嚢郡吉川町までの58Kを5時間半かけて完走しました。途中の裏六甲の西宮名塩の山越えはきつかったですが、ゴールでのビールは格別でした。大阪の方で走る事に興味のある方はご連絡下さい。皆さんは「どうしてきつい事をするんだろう」と思うでしょうが、登山の頂上到達と、マラソンのゴールは全く同じ物と思っています。
31期(平成4年卒)後藤克彦です
 ひょんな事から東京勤務になり、約7年間東京で暮らしました。この度、11月に再び茨城の地に戻ってきました。今度は研究所で人事をしております。この研究所、山の上にあります。名前は「風神山」。毎日の通勤が最近では唯一の登山ですね。
9期(昭和45年卒)若佐勢です
 最近は同期会の山行が主な山歩きになっています。あっ、そうだ。 11月中旬、各地に散らばっている子供らが珍しく顔を会わせたので裏山にハイキング。金沢文庫から鎌倉建長寺に出ました。鎌倉ってこんなこんなに近かった?って子供ら。15年ぶりだとそう思うかもしれない。普段は週一回のサッカーでそれなりに動いて、でも思いっきり汗を流しています。ワールドカップが近づくにつれ少しずつテンションが上がってきています。本物を見たいけど、チケットが手に入らなーーーーい!
8期(昭和44年卒)佐藤(タック&オギャー)です

 昨年3月に二人で鷹取クライミングスクールに入り、毎週のようにどこかの岩場で登っています。今年のハイライトは、5月の谷川岳一の倉沢烏帽子奥壁変形チムニー〜中央カンテ及び南稜、7月の剣岳チンネ左稜線及び八つ峰6峰Aフェース、10月の錫杖岳前衛フェース1ルンゼ及び3ルンゼなどです。何といっても、チンネを、それも全ピッチをリードで登ったということは夢のようなことでした。今度の正月は八ヶ岳に入り、赤岳鉱泉をベースにしてアイスクライミングの自主トレの予定です。クライミング仲間のホームページ(http://home10.highway.ne.jp/takatori)にクライミングの写真が載っています。

6月に湯河原幕岩のスクールに参加した時、オブザーバー参加した若いクライマーと話しているうちにワンゲルの後輩、32期(平成5年卒)の佐藤成男君ということが分かり、びっくりしました。

19期(昭和55年卒)石川重年です

 最近、公園を散歩していて、時々ワンゲル時代に登った山のことを思い出します。

 ・1、2年の訓練合宿--やぶこぎ、水制限、40kgのボッカ。・ 1、2年の夏合宿で登った南アルプス--長い縦走、ボッカの後、頂上をきわめた時の満足感。・ 3年の夏合宿の上越--やぶこぎ、平原の池とう。・ 1年秋の和賀岳--紅葉がきれいでした。・ 冬の二口--わかんを付けて雪の中、二口小屋までの縦走。・ 泉ヵ岳での合ワン など、今では懐かしく思い出します。

26期(昭和62年卒)伊田浩之です

  『週刊金曜日』の編集者として忙しく暮らしています。11月22日には、映画監督・宮崎駿さんのアトリエを訪れました。宮崎さんと筑紫哲也『週刊金曜日』編集委員の対談に立ち会うためです。 宮崎さんのアトリエは、東京の郊外にあり、周囲には大きな木が多くあります。アトリエの窓からは、小春日に輝く紅葉の赤や黄色、常緑樹の緑などが色鮮やかに見えました。「あっ、鳥だ」と思うと、それはガラス窓に張ってある鳥のシルエットだったり、いろいろと宮崎さんらしい工夫が凝らされています。吹き抜けを渡る空中廊下があるのは、宮崎さんが館主を務める「三鷹の森ジブリ美術館」と同じです。「家のなかに橋があると楽しいでしょ。音響的にもいいんですよ」と微笑みました。

日がかげらないうちに、アトリエの前で宮崎さんと筑紫さんのツーショットを撮影。干し柿が吊してあるアトリエの横手に回って、もうワンカット。それから、暖炉の火が暖かいアトリエの中に戻り、いよいよ対談の開始です。

話は、もちろん、宮崎さんの最新作『千と千尋の神隠し』から始まりました。『千と千尋の神隠し』の興行収入は、米映画『タイタニック』(1997年12月公開、興行収入約260億円)を抜いて、日本記録を更新中です。また観客動員数は、公開から約2カ月の9月26日に、やはりそれまで最高だった『タイタニック』の約1680万人を抜くスピード記録を達成しています。

「愚問を承知で聞きますが、なぜこんなに多くの人が見たと思いますか」と、対談を切り出す筑紫さん。宮崎さんはどう答えたと思いますか。

映画の話から始まった対談は、一神教と多神教、「ブッシュの戦争」、経済、文明論まで、ほんとうに多岐に渡り、予定を1時間オーバーするほど話がはずみました。読むと元気が出る2人の対談は、新年最初の1月11日発売号で掲載します。現在、編集作業の追い込み中。

こうして12月も休みが少ないまま過ぎてゆくのです。嗚呼!

22期(昭和58年卒)利根川敏です

OB、OGの電子メールアドレスを整理しています。皆様のご協力のお陰で約200名の電子メールアドレスが判明し、このOB会報も電子メールでたくさんの方々へ配信されているのは大変うれしいことです。

電子メールは住所と異なりかなり頻繁に変更される様で、こまめに管理しないとせっかくご連絡頂いたアドレスが役に立たなくなってしまうものです。電子メールアドレスの最新版は年に3回程度(を目標に)配信しています。アドレスの変更や追加がありましたら、遠慮なく利根川あて(GWT00287@biglobe.ne.jp)へ連絡して下さい。ご協力をお願いします。

最近は多くの企業が会社分割や事業統合といった様々な構造改革を進めています。私の所属していますNECの電子部品事業本部は、仙台に本社のあるトーキン殿と事業統合をすることになり、私自身も平成14年の4月より新会社へ出向する見込みです。(社名は「NECトーキン」となる見込み。勤務地は東京or仙台)です。

自然との触れ合いと言えば、家族で楽しむハイキングやスキーくらいですが、OB山行のタイミングに来年こそ皆様とどこかの山でご一緒したいと思います。


OB会のホームページより引用

10期(昭和45年卒)菅原英行です
 10期の30周年祈念シルクロードの旅は、快調なフルペースという訳にはいきませんでしたが、異国の地でワンゲル時代の愛唱歌をかなでたり、現地のすばらしいエッセンとアルコールに酔いしれ、オアシス都市の栄枯盛衰を偲んだり、とにかく浮世を忘れて悠久の時を過ごしてきました。
10期(昭和45年卒)冨並重宜です
 10名全員は8月18日に無事帰国しました。井上靖詩集の朗読会があったり、ゲロ踊りがあったり。20年来の仲間と愉快な旅ができました。(ワンゲル歌集を持っていかなかったのが残念)
23期(昭和59年卒)嵯峨光喜です

3年がかりの江刺甚句まつり。我々は今年が本番です。市内約850人の同級生のうち、200名前後が参加します。「如水会」ということで会名に「水」が入っていて、音の通り「じょすい」することができました。屋台には立派な龍が陣取り、水を静めるのに一役買ってもらいました。私は、如水会という名前をつけた責任者(名称部長)でしたので、思い切って頭に「水」の字を飾って踊り回りました。この頭は、会長の奥様に整髪して頂いたものです。

5月3日午前中は曇りでしたが、午後からは晴れ上がりました。一昨年、昨年と雨にたたられましたが、今年は、両日ともに晴の天気でした。

21世紀最初の年を飾る江刺甚句まつりは、新市役所庁舎も完成した奇麗な街並みで、晴天の下,大成功に終わりました。男性陣は、程度の差こそあれ、頭にはちまきの日焼け跡がくっきりと残っています。

10年目のリフレッシュ休暇を利用して、母とエジプト旅行へ行ってきました。ピラミッドは大きく、思ったより斜面は急でした。あれならころげおちるのもわかります。食べ物があわず、大変苦労しました。現地はまる5日間でしたが、それ以上はもうたくさんという心境でした。若くて体力のあるうちでないと行けません

4期(昭和40年卒)小原佑一です

今年もGWに真昼岳に行ってきました。尾根筋の残雪が少なく、北上線の「ゆだ高原」駅から県境稜線を北上する予定を一部変更し、稜線を見ながらただひたすら山沿に農道をテクテク。

1日目は、牧場の脇で1泊。2日目は里道から沢沿いの林道、そして「女神山」で稜線に取り付きました。1000メートルに満たない小さな山ですが、名前といい、形といい、素晴らしい山でした。ここから稜線の残雪を辿って、真昼岳まで。途中、何十年ぶりかで、しんどい藪こぎをやらされました。特に、去年ビクビクしながら雪の壁を上下した真昼の南急斜面で、今年は刈り払いの道を逃してしまい潅木混じりのひどい藪をしばらく登りました。風が出てきたので真昼の山頂の小屋に泊まる。

3日目の朝は海老の尻尾が時々強風に飛ばされて小屋の屋根を激しくたたき、ガスで先が見えない悪条件のため停滞。4日目の朝、やはりガスのため前進を諦めて、秋田側の登山道を下る。今度は秋田側の農道を山に沿って北上。天候も好転してきたので、再び川口川沿いの林道に入り稜線に向かう。林道終点にザックをデポしてサブで廃鉱跡から廃道と藪を辿って稜線へ。残雪の稜線を2キロほど北上し、またもや藪と時間切れのためバック。

5日目は林道を引き返し、農道に戻って山に沿って北上。薬師岳、和賀岳の登り口、真木渓谷の入口までテクテク。

実はここで、八幡平から安達太良、飯豊まで朱線が一本でつながりました。40年かかりました。しかし、稜線は今回歩けなかった部分など一部がまだ未踏破で残っていますが、焦らず、のんびり埋めていきましょう。

自宅に戻ってきたら、エーデルワイスが咲き始めていました。

今、我が家ではエーデルワイスが真っ盛りです。といっても4鉢ですが.....鉢ごとに個性が出ています。大きな花が咲く鉢、小さいけど、これがよく写真に出てくるエーデルワイスと主張していつやつ、いろいろです。

こうなってくると、早池峰薄雪草を見に行かなければならない気分になってきました。昨日、地図を買ってきてしまいました。さて、いつにしようかな?

35期(平成8年卒)吉田雅弘です
 4年間勤務した新日鉄を昨年春に退職し、福島の実家の運送会社(叶{賀川東部運送)に入社後、東京・田町のエス・シー・ロジスティクスに出向中です。このお盆に妻の結子と同期の松岡純子の3名で大雪山(黒岳−北鎮岳−旭岳)縦走に行ってきました。7月に行った巻機山といい、今回の大雪山といい、恐ろしいほどの快晴続きで、日頃の行いの良さを実感しました。
4期(昭和40年卒)島崎質です

4月22日に南会津の浅草岳にスキーを担いで行ってきました。頂上付近ではガスが出たり雪が舞ったりでしたが快適な滑降が楽しめました。

浅草岳の春スキーはこれで27年続いていることになります。雪の状態はまあ平年並み、強いて言えば尾根筋は少な目、谷は多目というところでしょうか。田畑にも50cm位残っていました。桜はまだつぼみ。連休の山歩き、楽しみましょう。

12期(昭和48年卒)藤田(旧姓半沢)真利子です

一昨年の暮れにスキーで転び、半月板を損傷して以来ろくに運動もせず、昨年は山といってもロープウェイで谷川に行ったくらい。山は遠くから眺めるものになってしまいました。

文学部の仏文卒業ということで、子育てが終わってからフランス語と英語からの翻訳を仕事にしています。OB会の新年会ではいつも本の宣伝と行商をさせてもらっています。

39期(平成12年卒)前野正吾です
 現在、京大エネルギー科学研究科修士課程1年です。核融合のためのプラズマについて研究をしています。まだまだ行きたい山もたくさんありますが、これから就職活動、修論と忙しくなってきそうです。今後ともよろしくお願いします。
8期(昭和44年卒)相原敬です

平成10年の同期山行(安達太良)以来しっかり山にはまってしまい、HP 「K2Couple」を一昨年に立ち上げたりして夫婦で歩きまわっています。会員は相変わらず2名で、しかも亀足隊です。ゆっくり歩くことで昔と違った山の味わいを堪能している昨今です。

山渓3月号の記事に誘われて2月3日掃部岳に行ったが時間の都合で(正午に下山)山頂往復で諦めました。雪は60cm位のパウダーでラッセルの真似事をして楽しんで来ました。風が強く復路では2時間位の間にトレースが消えていました。

性懲りもなく今日再び掃部岳から杏岳まで周遊してきました。昨日の雨(雪?)のおかげで霧氷が太陽光を浴びて七色に輝き綺麗でした。雪は中途半端にクラストしていて、蹴散らすには硬すぎるしツボ足では体重を支えられるほど締ってはいないためズボズボ。


新 年 会 の お 知 ら せ

 新年会は毎年1月の最終金曜日にいつもの所で行っています。
    平成14年1月25日(金)18:30
    新橋駅のすぐ近くにある新橋亭(しんきょうてい)(TEL 03-3580-7811)
    会費は10,000円の予定

 皆さんお誘いの上ご出席下さい。特に若い人の出席は大歓迎です。遠くの方でも東京に出張などで来るような場合には、ぜひ出席して下さい。飛び込み大歓迎です。逆に、に出席ということになっているのに、当日欠席される方も結構います。これは本当に幹事泣かせ。予定が変わった時は早めにご連絡下さい。

                問い合わせ、連絡先  佐藤拓哉  0468-41-8622 
                      Email :  3354407801@jcom.home.ne.jp

   平成13年新年会出席者
   (S39)松木
   (S40)小原佑一、白井洋行、関川利男、緑川学 
   (S41)相沢宏保、朝倉肇、海老央一、太田光二、桜洋一郎、佐藤豊治、渋川尚武、瀬尾勝之、横山雄一郎、吉田公平
   (S43)石川誠之、大釜寛修、金子清敏、菊谷清、上田俊郎 
   (S44)佐藤拓哉 
   (S45)伊藤健一、富川正夫、原田博夫、桃谷尚安 
   (S46)黒田和雄、菅原英行、田中康則、
   (S48)藤田真利子、神山文範、松井一昭
   (S55)板橋正之 
   (S58)石川勤、利根川敏
   (S62)伊田浩之、                       以上35名