2003.12.10     
会 報 TUWVOB会 No.34
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「東北大学ワンダーフォーゲル部」部長交代のご挨拶2003年4月21日)
前ワンダーフォーゲル部部長 野家 啓一(10期、昭和46年卒)

 OB会の皆様にはお変わりなくご活躍のことと存じます。ご無沙汰を重ねており申し訳ございません。

小生、鈴木禄弥先生、吉田公平先生の後を受け、三代目の部長を務めてまいりましたが、この4月から文学部長(文学研究科長)に就任することになり、課外活動の指導に十分な時間をとれなくなることから、これを機会に部長を退任することといたしました。

在任中には、OB会の皆様方にはひとかたならぬお世話になり、またご支援を賜りましたこと、この場を借りて厚くお礼申し上げます。後任の部長は、現在副部長を務めている植松康さん(工学研究科教授、16期OB)にお願いすることにいたしました。また、新しい副部長は土屋範芳さん(工学研究科助教授、22期OB)にお願いし、快諾を得ております。お二人とも小生と同様にOB会のメンバーですので、安心して後事を託することができますが、OB会の皆様には新体制のワンダーフォーゲル部に対し、今後とも旧に倍するご支援、ご助力をお願い申し上げる次第です。

小生が部長を務めておりました十数年は、幸い大きな事故もなく、山行形態はだいぶ様変わりしましたが、TUWVの志を継ぐ多くのOBを送り出すことができました。ただ一つ残念なことは、往時と比べて部員数が一学年数名程度と減少し、ファイヤーを囲むにも隙間が空く状態となっていることです。社会環境や若者気質の変化もあり、やむをえない面もありますが、新しい部長と副部長のもと、ワンダーフォーゲル部のさらなる発展を期待したいと思っております。小生も今後は一OBとして、側面からサポートを続けていくつもりです。OBの皆様も機会がありましたら部室を訪ね、現役部員を激励していただければ幸いです。

 最後に、OB会の皆様方のご健康と益々のご活躍をお祈りし、退任の挨拶に代えさせていただきます。
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アンナプルナ山行記
3期(昭和39年卒) 後藤 龍男

去年のエベレストに味をしめ、今年もヒマラヤへ出掛けました。メンバーは松木、佐藤、後藤(3期)、及川(4期)に5期の渋川君が加わりました。家内が言うところの“三馬鹿大将プラス2”。おおむねリタイアドです。

今回の目的地はアンナプルナ。ポカラから車で1時間行った標高1000mのナヤプルから4200mのアンナプルナBCまで往復2週間の行程です。ABCは1970年のイギリス隊がベースキャンプに使った場所で、モディ・コーラ谷の最深部、南アンナプルナ氷河のモレーンの上にあります。ここに二日間滞在しましたが、8091mの主峰アンナプルナT峰をはじめ、ガンガプルナ、マチャプチャレ、グレーシャー・ドームなど周囲を7〜8000m峰に取り囲まれ、実に素晴らしい山岳景観でした。到着直前、すれ違った欧米人のトレッカーから“ナマステ”ならぬ“Welcome to Heaven!”と挨拶されましたが、まさに天国です。

歩き出しのナヤプルから標高2000mのチョムロンまでは熱帯のジャングルですが、その先はモディ・コーラの切り立った氷河谷の底を歩きます。標高3200mのデウラリを過ぎると気温が下がりはじめ、ABCでは朝夕気温が零下5〜10度になります。この時期、ポスト・モンスーンの10月は毎日快晴で、天候はすこぶる安定しています。

ご存じのようにアンナプルナは1950年のフランス隊による人類初の8000m峰登頂で有名です。イギリス隊のエベレスト初登頂はその3年後です。隊長エルゾークの「処女峰アンナプルナ」を40年振りに読み返しましたが、このときのフランス隊は徒歩でインド国境を越え、ポカラの西方カリ・ガンダキ川を遡るルートを採っています。肝心のアンナプルナが見つからず、散々探し回った挙げ句、やっと見つけて西北側から登頂しています。今ではポカラまで飛行機で行けば、ホテルの窓から誰でも見ることが出来ます。たった50年で世の中変わるものですね。ABCからの南斜面は難度が高くほとんど登られていません。その難しさは、写真でお目にかける南アンナプルナ氷河基部から屹立する標高差4000mの様相でお分かりでしょう。

去年のエベレストもそうでしたが、今回も日本のパーティーにはまったく行き会いませんでした。トレッカーのほとんどはヨーロッパ人で、韓国と台湾のチームが少し混じっていました。このあたりには自動小銃を持ったマオイスト(毛沢東主義のテロ集団)が出没し、トレッカーを脅して通行税として千ルピーほど巻き上げるそうです。我々も危うく遭遇しかけましたが、それを怖れて日本人がほとんど来なくなったと現地の人が言います。最近の日本人は自閉症気味で、海千山千のヨーロッパ人はともかく、韓国や台湾の人達より勇気と外界への意識、冒険心が低下しているらしい。そのことは昨今のイラク自衛隊派遣問題の迷走や南極観測中止の愚挙にも如実に表れています。実に嘆かわしいことです。

 写真を3枚お目にかけます。上から、アンナプルナT峰(8091m)、マチャプチャレ(6997m)、アンナプルナ南峰(7219m)とテントサイトです。来年はカラパタールかランタン・リルンにしようと今から話しあっています。そろそろOB会パーティーを出されてはどうですか。

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南インドからの便り
4期(昭和40年卒)大東磐司こと小原佑一

南インドのチェンナイ(昔のマドラス)に住民登録をして1ヶ月近く経ちました。2001年夏から何度となく出張で通っていたインドですが、ニューデリーに向かう飛行機からと、昨年暮れにネパール・カトマンズで開かれた会議に参加したときヒマラヤを見たくらいで山とは縁がありません。休暇をとってトレッキングでもできればと山の道具は船便に入れましたが使うことがあるか.........

インド人に「うま味」を理解してもらおうとやってきましたので、毎日インド人と同じようなパサパサなご飯に汁気のあるおかずをかけたような食事を右手でこねくり回してから指先をうまく使って摂っています。長年インドに駐在している日本人の商社マンに「手で食べて熱くないですか?」と聞かれてしまいました。せっかく異文化に接することができるのに、なんてもったいないんだろうと思ってしまいました。でも、現地の食に手を出すということは、特に開発途上国では相当勇気がいることのようです。

現役時代、腐ったような湿原の池塘の水を「ボウフラが生きているんだから大丈夫!」といって飲んでいたときの免疫がまだ残っているようです。

インドに来た人がよく経験するお腹を壊すどころか、食べすぎでお腹が出てきました。車でないと安心して動けない環境なので運動不足もひとつの原因です。少し落ち着いてきたら、できる運動を探してみます。とは言え、会社からの駐在員という肩書きが付いているので学生の冒険旅行や昔のピッピーみたいなことはできず、まじめにお仕事をやっています。

毎日いろいろな発見があり、それを楽しみに過ごしています。「インドの食」という情報発信(メルマガ)を行っています。そのうち「インドの雑」という、もろもろの雑学に関する情報発信もしたいと考えています。日本語に飢えていますのでご希望、ご要望などをメールでください。

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TUWV 7期35周年同期会の報告
7期(昭和43年卒)菊谷 清
平成15年9月27日(土)、28日(日)  新潟県栃尾又温泉「自在館」
上田、大釜、大木、大山、国岡、菊谷、斎藤、手戸、藤森、真尾、村山、八重樫、矢後、山岸、山口

急遽、東京周辺で同期会をやろうということになり、にわか幹事がにわか仕立てで同期会を計画したのだが、結果として35周年というグッドタイミングになった。昔のワンゲルの同期会といっても全員一緒に登山ができる体力など残っているわけもないので、山奥の温泉につかりながら昔を懐かしむとともに思い出の山々を遠くから眺める、というひたすら楽な設定となった。

初日午後、上越新幹線浦佐駅に集合。マイクロバスで今夜の宿の栃尾又温泉「自在館」に到着。ここは日本秘湯を守る会の宿ということであったので、ひなびた秘湯を期待したのだが、想像と違いガッカリ。車で入れる秘湯などあるわけがないノダ!夕食前に宿の内風呂に入るが、ぬるくて風邪を引きそうだ。ここの源泉は37℃で元々ぬるく、温泉の効用はそのぬるま湯に長時間つかって初めて得られるのだそうで、せっかちな現代人にはせっかくの御利益も得られそうもない。

夕食とともに同期会の宴を開始。同期会初参加は斎藤と矢後さん。同期の集まりで欠かせない元気者の金子は今回仕事のために欠席。白髪になったり禿げ上がったりと外見・風貌は学生時代と変わったが、みんなの笑ったときの笑顔は昔のままだ。懐かしく、嬉しい。宴会が二時間半でタイムアップになった後も話しは尽きないので、部屋を変えて集まる。話しがはずめば、ついつい声も大きくなるのはやむを得ないことか。ここは静かな宿なので夜遅くまで騒がしくすることは好ましくないのだが、宿の方に特別にお願いした。

翌朝、8時出発なのでゆっくりと起床して周辺を散歩。朝の冷涼な空気に身が引き締まる。名物の樹齢400年の巨大な夫婦けやきと子持ち杉を見物。子宝の授かる子持ち杉はもう関係ないので、定年後もカミさんに愛想をつかされないようにと夫婦けやきをくぐる。朝食後、電源開発のマイクロバスに乗り出発。今日のガイドは48年土木科卒の後輩。奥只見・大鳥ダム増設工事の建設所長だが、我々先輩の案内役を買ってくれたもの。銀山平から遊覧船に乗り銀山湖を奥只見ダムまで湖上遊覧。湖の周囲に深く切れ込む長大な沢や空高くそそり立つ稜線を眺めつつ、みんな、昔の平ケ岳集中を思い起こしていたようだ。ダムサイトではイヌワシの営巣地を望遠鏡で覗いたり、ダム地下深くの発電所を見学したりしたが、当日は曇り空であったためダムから平ケ岳が見えなかったのが残念であった。

帰りは越後駒登山口のある枝折峠をマイクロバスで越える。峠のプレートを囲んで記念写真。夏合宿の時はおんぼろバスで、急峻なガタガタ道を乗り物酔いに悩まされながらやっと峠を越えた記憶がある。越後駒は雨模様で、下山してくる登山者は足元がみなドロドロだ。たくましい彼らの姿に昔の自分の姿を重ね合わせたのは自分だけか。下界に到着後、大浦開山堂見物に立ち寄る。ここは江戸時代の名匠石川雲蝶の透かし彫り彫刻がある所。堂内一杯に彫り込まれた立体的な透かし彫りの迫力に圧倒された。あんな片田舎で、あのような素晴らしい芸術作品に出会うとは想像もできなかった。

楽しい時間はあっという間に過ぎる。帰りの新幹線で自由席に集まってお別れの宴会でもやろうとみんなで相談して乗ったのだが、自由席が満員のため願いは果たせず、バラバラになってしまった。最後がちょっと尻切れトンボになり、充分に同期会の余韻を楽しんでもらえなかったのが残念。

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TUWV12期同期会 〜 奥鬼怒
12期(昭和48年卒) 神山 文範

早いもので、もう今年で卒業30年。大学紛争が仙台に及び、2年の評定合宿時から5人の歴代最小の代です。しかし、少ないことも利点の一つか、すぐ過半数が集合するのです。関西勤務だった雨宮が出張で東京に来るたびに、八重洲地下街の「玉の光」(学生時代からの癖で看板の酒名で呼んでしまう)で集まっていました(今は雨宮が鹿島に単身赴任で出張が少なく、また休みには1人娘に会いたくて?東京を素通りして自宅に帰るので、最近は間が空いているね…)。

そんな訳で、20周年には、今は無き二口山荘に蔭山を除く80%+松井のご家族+神山の家族が集まり、盤司岩近くの大行沢で豚汁を作りました。25周年では半沢を除く80%が朝日連峰祝瓶山麓に集まり、1期上の園部さんがメンバーである茨城県の山仲間と角楢小屋に吊橋改良資材を運び、麓の民宿で熊鍋をご馳走になりました。今年は30周年。6月10日に雨宮が久しぶりに東京に出てきたので5人全員が時間差で集まり(即ち、神山が着いた時には蔭山が帰った後だった)、2期上の先輩みたいな派手な(シルクロード)旅行は夢の夢ですが、近場で温泉が有って体にやさしい山に登ろうということになりました。

という訳で、8月2〜3日に鬼怒沼に行ってきました。蔭山はお袋さんの介護で欠席でしたが、直前にも雨宮が同期入社の親友のご不幸で欠席、また半沢のご主人(即ち藤田徹氏)も急な仕事で欠席となり、最終的には松井、半沢、Mr. & Mrs.神山の4人(これでも60%の出席率)で楽しんできました。2日は温泉博士の案内書に「頑固に登山者の宿としての姿勢を保ち、背広を着ていったら断られる…、でも自然湧出の温泉は一流・・・」とか紹介されている日光沢温泉に泊り(露天風呂につかり、半沢のフランス旅行記などで、壁ならぬ紙一枚隔てた隣室の客に苦言を呈されるまで話が盛り上がった)、3日は流石に「登山者の宿」、6時には朝食完了。天候不順なこの夏の奥鬼怒初めての晴天に恵まれ、鬼怒沼の自然、そして日光白根や燧、さらに遠く平が岳(3年の夏合宿は上越で、神山Pは平が岳から始まった)の眺望を楽しんで来ました。

最後に近況を。雨宮は前述。紅一点の半沢(現藤田)はこの夏、パリのボーイフレンドとのシシリー旅行も楽しみ(藤田徹氏も一緒です、念のため)、最近も朝日の書評で紹介された「お尻とその穴の文化史」を出版、今や一流の翻訳家です。松井は今も硬派、ローカルのマラソン大会に出場し、秩父の山に一人で登り、体力維持に余念がありません。蔭山は仕事で韓国に出張が続いており、日韓親善民間大使の如くなり、今やキムチ漬け?そして私(旧姓増渕)は、娘が大学のチャリ部で全国ツアーするのに負けじと、SUVを駆って妻と秘湯ドライブ(5月奥会津小豆温泉、8月日光沢温泉、9月は娘も加わり渋御殿湯泊で北八ツ天狗岳登山、10月木賊温泉、11月松川温泉)を楽しんでいます。

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巻機山わはは血風録
26期(昭和62年卒)伊田 浩之

 電子メールは人を怠け者にする。今年のOB山行の相談は、メーリングリストで1月下旬から始めた。しかし、山域と日程がほぼ確定したのは9月下旬だったし、山行の前日まで集合場所や誰が鍋を持っていくかなどの相談を続けていた。今年われわれが目指すことにしたのは、深田久弥が上越国境の「隠れた美しい山」とたたえる巻機山(1967メートル)。日程は、吹雪かれてもおかしくない10月最終週の週末になった。金曜日(24日)から休めるメンバーは麓のキャンプ場で芋煮をする予定だ。

 関東組は早朝、佐藤が車を出し、伊田と北村をひろって関越自動車道を北上した。出発前の天気予報によると、登山を予定する土曜日の降水確率は50%。どうなることやら。

 と、和歌山から参加予定の平田から携帯に電話が入った。大阪駅で金沢行きの特急に乗り遅れたという。仕方がない。越後湯沢で温泉につかり、酒とエッセンの買い出しをする。遠望できる越後三山はじめ、国境沿いの山は見事に真っ白だ。昨日いっきに積ったようだ。

「乗り遅れたら東京経由の新幹線で来れば早かったのに」と平田に言うと、「出張サラリーマンだらけの新幹線に、山に登る姿でいたくなかった」と話した。確かに理解はできる。

麓の清水集落から登ったキャンプ場についたのは午後5時半近く。晩秋の山麓は一気に暗くなりはじめた。テントを張り、焚き火をし、エッセンを作る。みんな手際がよい。大鍋の芋煮を火にかけている間に、バーベキューセットで焼き肉をはじめ、ビールや日本酒、ワインが回る。いろいろな話で盛り上がるが、実は重要な議題が残っているのだ。

巻機山をピストンするコースタイムは8時間。冠雪しているので余裕をもって6時には出発したい。だが、関東組の最後の1人、小泉が越後湯沢に来るのは7時半なのだ。結局、迎え要員1人を残して出発し、後発組は登れるところまで登ることにする。ジャンケンで負けたのは……私だった。

土曜日は快晴になった。越後湯沢駅では、小泉のほか、静岡から車で駆けつけた森川とも合流できた。午前8時過ぎには登山口に到着し、後発組3人は2時間強遅れで出発する。

灌木と笹の中を歩き、井戸の壁と呼ばれるジグザグの急登を越えると、焼松(5合目)の小平。正面に米子沢の核心部の滝が連なって見える。深田久弥も音をあげたという檜穴の段を過ぎ、7合目になると俄に視界が開けた。「核心部また一つ越ゆ七竈 浩之」。すでに一面の銀世界。カラフルな登山者たちが列をなしているのが遠望できる。やはり、われわれは最後発組なのだ。

前巻機山(ニセ巻機)につくと、いよいよ巻機本峰が見える。なだらかな斜面が印象的だ。木道を鞍部まで下ると、9合目の小屋だ。「木道の根雪となれぬ雪なりき 浩之」。

凍てついた池塘を眺め、ゆるやかに登ると、御機屋と呼ばれる稜線に出た。越後三山がくっきりと見える。中ノ岳から八海山に続く尾根が、ぐっと落ち込むオカメノゾキが荒々しい。一年生の秋合宿でばてた記憶がよみがえった。

ここで先発の3人と合流した。「巻機山頂」の看板を囲んで写真を撮る。風が冷たい。早々に小屋まで戻って地図をよく見ると、最高峰の巻機本峰は「山頂」の看板の地点から少し奥にあることに気づいた。先発の3人が「お前らは巻機に登ったとは言えないな」と冷やかす。「稜線で教えてくれよ」との言葉を飲み込み、「いや登っているよ」と強弁した。そんなことに気づかぬほど、稜線は平ら
だし、気温は低かった。小屋の前は風もなく穏やかで、温かい珈琲をいれて一服する。周りには、20人ほどの団体を含め、多くの登山者が憩いでいる。

さあ、あとは下るだけだ。新雪がクッションになって足を下ろすところを気にしなくてすむ。「うたた寝の山けとばして下りけり 浩之」。ワンゲル下りをがしがしやって登山口の桜坂駐車場に戻ると午後2時40分だった。コースタイム8時間を、6時間半で歩いたことになる。40歳近くとはいえ、まだまだ俺たちも捨てたもんじゃないな。と思ったら、私はけっこう腰に来てしまった。膝が痛むという奴もいる。大急ぎで今晩泊まる「五十沢温泉ゆもとかん」に向かい、温泉と宴会で疲れをねぎらった。ちなみにこの宿の名物、混浴大露天風呂にいた女性の年齢層は言わずもがな。ただ、新米の魚沼産コシヒカリはさすがに大満足の旨さだ。

不参加メンバーのうち、荒田はインドネシア勤務中。小松は体調不良。森は急遽、身内に不幸があった。長谷川と松沢は連絡が取れなかった。やはり、直前まで詳細が決まらないような山行では駄目だと深く反省したので、来年(2004年)の山行はすでに確定している。日程は7月30日〜8月1日、目指すは平ケ岳。憧れの山頂に挑む。

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2年越しの屋久島山行
11期(47年卒)秋田 修

 5月18日(日)から21日(水)にかけて奥さんの念願であった宮之浦岳縦走をしました。

 ・1日目  淀川登山口→花之江河→宮之浦岳→新高塚小屋

・2日目 新高塚小屋→縄文杉→辻峠→白谷雲水峡

 昨年も計画したのですが、仕事の都合で断念したので2年越しでの山行実現でした。家内の脚力に不安があったので、山中2泊(小屋泊まり)の余裕のある計画とし、また職場の屋久島山行5回の同僚を無理矢理ガイド役にお願いし、もう一人若いサポーターをつけた4人パーティーで出発しました。

あまり期待できる天気図ではなかったのですが、ガイド役が屋久島では全て晴れだったとの晴男に期待しました。しかし、やはり初日の淀川小屋へのアプローチは雨具使用となりました。早々に淀川小屋に入り、夕食も早めにとり、持参のアルコール類も初日というのにほとんど空けてしまい、明日の晴天を願いながらシュラフに潜り込みました。夜中にガサガサという音で目が覚め、見まわすと、つるしておいたゴミ袋の中からの音で、ゴミ袋をつついたら屋久島ヒメネズミが飛び出しました。それからは、枕元やら足下を走り回られ閉口しました。同行の若いサポーターは口にでも飛び込まれたら大変とまんじりともできなかったようですが、家内は平気で寝ていました。

 翌日もやはり細かい雨が降り続き、淀川の橋を渡り、花之江河の湿地帯まで黙々と歩く山行となりました。しかし、しっとりと濡れた屋久杉の根元のコケ類や屋久杉にとりついた多様な木々の枝葉が雨に濡れる様は、屋久島には雨が似合うと思わせるものでした。また、石楠花が見事で雨を忘れさせてくれました。屋久島では水の心配がないといわれるように、標高が上がっても水場があり、これも雨の多さを実感させるものでした。

 樹林帯を抜け、稜線に出でても雨は降り続き、視界も時折開ける程度で眺望はほとんどききませんでした。宮之浦岳の頂上でもすぐそばの永田岳が望める程度で、岩陰で昼食をとり、証拠写真を撮影して早々に頂上を後にしました。道中の”やくさる”や”やくしか”との遭遇の多さに驚きつつ下りに入り、名もない屋久杉の巨木を感動して見上げながら、2泊目の新高塚小屋に無事到着。平日なので空いていると思いきや、我々の到着後、反対側からのツアーの団体客(ご多分に漏れず装備完璧型熟年登山隊)がどやどやと入ってきて超満員状態。少し遅れてきた夫婦は仕方なく高塚小屋まで下っていきました。平日とはいえ大人数の小屋泊まり登山ツアーは迷惑ものです。

 さて、翌朝は天候回復気味の中の下山となりました。陽も射し始め、縄文杉につくころは木漏れ陽が屋久杉や木々の梢から漏れ射し、雨上がりの屋久島の美しさを堪能しました。昨日の団体が今頃快晴の宮之浦岳頂上を目指していると思うと少ししゃくでした。

 平日というのにこの辺から縄文杉を目指すガイド付きのハイキング客とのすれ違いが多くなり、屋久島人気を改めて思わされました。下山後は飛行機の便がなく屋久島でもう一泊。温泉巡りや千尋滝見物、屋久島風懐石料理を堪能して屋久島を離れました。

 家内への約束は果たせたので、次の機会があれば、宮之浦岳からの眺望と永田岳登頂を目指したいと思っています。計画のある方がいたら誘って下さい。

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前穂北尾根W峰正面壁 北条=新村ルート
8期(昭和44年卒)佐藤 拓哉

奥又白の池のほとりに張ったテントを一晩中雨が叩いている。気が重いが、2時に起きてとにかく朝食をとる。3時半、雨の中を出発する。メンバーは鷹取クライミングスクールの嶌田先生(JCC)と我々夫婦の3人。奥又白本谷の雪渓を登っているうちに明るくなり始める。テン場から1時間半で北条=新村ルートの取付きに着く。相変わらず小雨が降り続いているが、ガスは昨日より薄い。濡れて黒く光る岩壁が目の前に立ちはだかっている。

前日、井上靖の「氷壁」で有名になった前穂東壁を目指したが、悪天候のため途中で引き返した。今日も天気は悪いので、ルートを北条=新村ルートに変更した。このルートは登攀史上やルートの内容から、穂高を代表するクラシックルートとされている。

取付きから見上げる広い正面壁には、右上気味に凹状ガリーが100mくらい伸びている。ガリーのすぐ右側を3ピッチで登る。岩は濡れているが、ゴツゴツした岩なので滑ることはない。急な凹状部を直上すると広いハイマツテラスとなる。凹状部の直上は見た目より登りにくく、あと一歩のところで濡れた岩で滑ってしまう。ホンチャンルートでの初フォールである。手を上げっぱなしにしていたため、テラスに着いた時には指先が冷え切って痛くなってしまった。雨は降り続いており、雨具を着ていても次第に濡れてきて寒くてしようがない。雨具の下にフリースを着てこなかったことが悔やまれる。

テラスから見上げた壁は全体的に前傾しており、頭上に大きなハングが迫ってくる。ハング帯の切れ目、すぐ右側の凹角部を登る。下部は特に難しくないが、最初の小ハングで変な体勢になってしまい、なかなか立て直せずモタつく。ここを登るといよいよ核心部の2つ目のハングである。残置スリングが何本かぶら下がっており、誘惑に負けて使わせてもらう。ハングした岩を右側から回り込むようにしてようやく登る。かなり時間を食ってしまう。オギャーに大分遅れをとる。

ハングを越えた後は硯石のようなフェースを右に10m程度トラバースする。フェースは全体的にはツルツルだが、ホールドはしっかりしており、ホッとする。終了点の一角に古いハーケンが4本も並んで打たれている。戦前に登ったクライマーが打込んだハーケンが残っているかどうか分からないが、先人の足跡を強く感じさせる。

バンドをさらに15m程度トラバースする。高度感抜群である。カンテを回り込み、急なフェースと傾斜の落ちたゴツゴツしたスラブを登るとハイマツ帯となって終了となる。ちょうど10時、取付きから約4時間半かかった。

一昨年の剣岳チンネ・八つ峰、昨年の北穂滝谷ドーム、今年の前穂北尾根W峰正面壁と日本を代表するクラシックルートを登った。クラシックルートを一つでも多く登りたいものである。来年はぜひ北岳バットレスを登りたいと思っている。


いかがお過ごしですか?

7期(昭和43年卒)の山口正雄です。

年1回の山行も今年で3年目。還暦を過ぎた人、これから迎える人と小生の3人で、一昨年夏/穂高、昨年夏/鹿島槍、今年夏/剣岳とミーハーの山を選んで歩いてきました。いずれの山も老若男女で賑わうというよりも、老男女の世界(我々も含め)で、一瞬姥捨山(?)に来たか錯覚するほどです。通勤はマイカー(運転手付き)と電車、たまのゴルフは電動カートを利用して足腰を温存しているお陰で、ミーハーの山でも苦労しながら登る本来の山登りの醍醐味を毎回満喫しております。3年坊主という言葉があるのか無いのか、来年(平成16年)が正念場かと。


8期(昭和44年卒)の相原敬です。

わが社から上毛三山が見渡せます。関東平野の北にでんと腰を据える赤城山。赤城山という山は特にないが山上の火口湖を取り巻く最高峰の黒檜山、駒ヶ岳、地蔵岳、鈴ヶ岳、荒山、鍋割山等を総称して、それぞれに個性があっていい。榛名、妙義もそんな感じです。社員に聞いてみても、個々の山名まで知っている人は殆どいないことに気が付く。興味のない事ってこんなもんだなと納得します。

先日、友人と美術館めぐりをする機会がありました。文化的な事に関心を示さなかった自分をさらけ出す美術館めぐりでもありました。興味のない事ってこんなもんだなと納得していいものだろうか。もう少し右脳を使うように心掛けようと誓ったばかりです。新しい才能が目覚めることを期待して。


8期(昭和44年卒)の前田吉彦です。

昨年春から4度目の秋田県での勤務となっております。転勤を機会にスキーと山登りを再開しました。一時のスキーブームが去り、ゲレンデは超閑散。リフト待ちゼロで思いっきり滑れます。安比高原スキー場まで車で一時間なので、昼まで滑った後温泉に寄って一日の終わり。但し、この冬は雪が遅く、未だ機会を得ず。一方、山は八幡平、秋田駒、森吉山等いずれも近場を日帰りしております。いずれも静かなことと温泉が何よりもうれしい山行きです。来年は鳥海山、早池峰山まで足を延ばしたいと思っていますがーー?? 北東北最大の観光スポットである十和田湖の西半分は、私が住んでいる小坂町に属しております。近くにお越しの方は声をかけて下さい。


19期(昭和55年卒)の佐野豊です。

TUWVを卒業後、東京の労山「ぶなの会」を経て、今は「仙台YMCA山岳会」に所属しています。初めての冬山で訪れた二口小屋は、今も健在です。最近、二口の歴史を調べています。野尻の佐藤家、二口から山形県三川町に移住した佐藤家、二口小屋を所有する山形市役所森林管理部と、現地調査を並行して進めています。二口林道を、かつての二口古道に復元することを夢見ています。大行沢の原生林と二口古道を合わせれば、世界遺産で騒がれている白神山地以上の価値があると考えています。ただ、その価値に気付いている人達が少ないのが残念です。TUWV・OB会が、二口を開発の脅威から守る、何らかの防波堤の力になればと思います。

この一年は、会社から工学部に、受託研究員として派遣されています。若い人たちの刺激を受けています。亀岡神社の階段は、今も昔と変わらない面影を留めています。

「岳人」から依頼されて、時々、原稿を書いています。以下の通りです。

「みちのく源流遡行」(1997年7月号P.151) 「内唐府沢右俣」(1997年8月P.62)
「朝日連峰・桝形川」(1999年7月号P.56)  「再生なるか山岳会」(2002年7月号P.80)
「二口小屋」(2002年12月号P.37) 「栗駒山の内院に遊ぶ」(2003年12月号P.86)
「岳人時評」(2004年1, 3, 5, 7, 9, 11月号予定)

19期(昭和55年卒)の小山茂典です。

 1990年以来14年間におよんだカリフォルニア生活を終え、11月日本に帰国しました。年に何度も日本と行き来をしていたとはいえ住むとなれば大違い。浦島太郎かジョン万次郎かという心境です。ようやく少し落ち着いてきたとはいえまだ日々小さな不思議発見の毎日です。米国型食生活になじむ努力(?)の末アメリカではぴったり標準体型になっていたのが、こちらでは図体持て余し、風のように地下鉄駅構内を歩き去って行く通勤者の群れの中であっちにぶつかりこっちにぶつかりしています。東京青山の本社勤めとなりこれまでの静かな個室から喧騒の大部屋に会議会議の毎日にもとまどいを覚えています。高校生の子供が二人いるのでそれぞれの学校の始末をつけるまでしばし逆単身赴任。大井町の会社施設(ワンルームマンション)にとりあえず落ち着きましたがアメリカの家のバスルーム程度のスペースで起居する生活にややカルチャーショックを感じています。でも改めて日本の食事はおいしいです。何気ない定食屋のカキフライや街の蕎麦屋の天ざるなどに感激しています。年末は逆帰省でカリフォルニアで家族と正月を迎える予定です。これから時間をかけて日本への再移住をアジャストしていきます。

20期(昭和56年卒)の佐々木晃です。

筑波山の麓で百姓を始めて3年目に入りました。農薬と化学肥料を使わない、露地栽培の野菜専業農家です。TUWVOBの何人かのお宅にも野菜をお届けしていますが、ご家族の評判はいかがでしょうか?今年も気まぐれな気候に振り回されましたが、多品目栽培することで何とか終年出荷を続けています。そのためなかなか外出もままならず、山はもちろん同期のメンバーとの一杯もずっとご無沙汰で、気楽なようで案外不自由なものです。脱サラ百姓生活に興味のある方は、一度お出かけ下さい。

(佐藤(8期):私も会員です。会員希望者は以下まで。定期的に新鮮な野菜が届きます)

***** ささき農園(TEL&FAX  0296-23-9768 akira00@jeans.ocn.ne.jp *****


22期(昭和58年卒)の利根川敏です。

昨年8月に仙台へ転勤となり、8ヶ月の単身生活の後3月末に家族が合流、家族5人が仙台で生活しています。家族で仙台近郊へ外出する機会もあり、蔵王山頂散歩、秋保大滝・二口散策、定義如来観光(その昔船形山の下山時に通過)、泉ケ岳登山などワンゲル時代に訪れた場所を20数年ぶりに訪問しています。インターネットの普及で世の中はものすごい勢いで変化していますが、神様が与えてくれた大自然に大きな変化は無い様で、授業をさぼって毎週の様に野山を跋渉した思い出が、時代のスピードに流されない小さな宝物になっています。

 NECからNECトーキン(旧東北金属、トーキン)へ出向し、技術開発本部で研究企画、開発管理、産学連携推進などを担当しており、全社の研究開発方針策定や東北大学との包括的研究協力推進などを行なっています。日常業務では、技術屋、事務屋、コーディネータ、雑用係・・・・など、もろもろの仕事を一手に引き受け、青葉山から片平丁、長町(会社)から国分町、仙台駅(今は東京出張、昔は仙山線)・・・・と学生時代に走り回った場所が現在のテリトリーになっています。ワンゲル時代に開拓した安くて安心できる飲み屋は・・・・悲しいかな・・・・ほとんど全て無くなっているのが残念です。

 ボランテイアで始めたTUWVのe-mailアドレス整理も来年は7年目に入ります。現在3期から41期まで約40年間にわたる228名のe-mailアドレスが判明しています。e-mailアドレス変更の連絡も多く、戻りメール(宛先不明)も増えてきましたが、500名以上の方々全員のアドレスを見つけ出し、たくさんの仲間が1本のザイルで結ばれるまで、細く長くアドレス整理を進めます。

アドレスの変更があった場合または年賀状などでTUWVのOB、OGの新しいアドレスを見つけたら、GWT00287@biglobe.ne.jp 利根川 までご一報下さい。

「電子メールを通じて学生時代の仲間と久しぶりに連絡がとれました〜...」とご連絡を頂く場合が多々あります。来年以降も電子メディアを通じ、新たな再会があることを心より期待します。


22期(昭和58年卒)西川 雅明です。

奥多摩や丹沢のヤブ歩きに凝っています。7月から11月までの約半年間は、腰痛の再発と仕事の繁忙でどこにも行けませんでしたが、それまでは月2回のペースで山を歩き回っていました。新ハイキング社「中央線の山を歩く」、奥多摩山岳会「奥多摩の尾根と沢」、宮内敏雄「奥多摩」などがバイブル。歩きつくされた東京近郊の山にも静かな場所はあるものです。詳しくはHPをご覧ください。http://nishikaw.hp.infoseek.co.jp/rireki.html 12月から再開しようと思っています。


27期(昭和63年卒)の平塚晶人です。

学校を出て2年目の89年に、都岳連加盟の徒登行(ととこう)山岳会に入会し、以来、そこで山登りを続けています。沢を中心にやっていますが、今年は岩に取り付く機会が多く、一ノ倉中央カンテ、北岳バットレスDガリー奥壁〜中央稜などを登りました。

仕事はノンフィクション・ライターをしています。山関係では、98年に、「地図の読み方」(小学館)という、読図のノウハウに関する本を書きました。使用した2万5千図はニ口のものばかりになってしまいました。ワンゲルの共有財産である地図読みのテクニックを勝手に公表してしまい、OBの皆様には申し訳なく思っております。

文筆のジャンルはスポーツが多いのですが、次作は久々に山物です。来年の4月ころに、文藝春秋社から、昭和24年に北鎌尾根で遭難死した松濤明氏と、昭和30年代に「第二次RCC」というクライマーの団体を主宰した奥山章氏の2人の登山家の足跡を追った単行本を出版します。タイトルは未定ですが、「アキラからの遺書」といった類になると思います。本屋で見かけましたら、どうぞ手に取って見てください。OBのみなさまの山行が、今年も安全なものであることを願っております

(佐藤(8期):岳人10月号を見ていたら、平塚晶人さんが写真入りで載っていました)


32期(平成5年卒)の佐藤成男です。

今年は印象深いクライミングができました。ボルダーで虫(三段)、蛙(三段)を登り、フリークライミングでスペシャリスト(5.13d)を登りました。来年には5.14を登りたいなーと思う今日この頃です。関東に出て3年ですが、友達ができないため、独りでクライミングに行くことが多いです。5.14の核心はビレーをしてくれる人を見つけることかな・・・と悩む今日この頃です。

(佐藤(8期):これはもの凄い。ビレーしに飛んで行きますよ)


33期(平成6年)の日野淳一です。

ここ3年ほど、33〜35期の山スキー愛好者が集まって、冬になると足しげく山スキーに通っています。今年は草津白根、守門、焼山、谷川などに入りました。4月の谷川では、8期の佐藤拓哉さんとニアミスしていたようです。最近2名がカービング板に移行し、山で華麗な滑りを披露しているのを見るにつけ、買い換えようかと悩んでいるこのごろです。

(佐藤(8期):芝倉沢を滑降するために小雨の中を肩の小屋直下の急斜面を登っている時、3人が豪快に滑ってきました。登る途中にも、休憩しているその3人に会い、話しました)

新 年 会 の お 知 ら せ

新年会は毎年1月の最終金曜日にいつもの所で行っています。

    平成16年1月30日(金)18:30 (会費は10,000円の予定)

    新橋駅のすぐ近くにある新橋亭(しんきょうてい)(TEL 03-3580-7811)

お誘いの上ご出席下さい。特に若い人の出席は大歓迎です。遠くの方でも東京に出張などで来るような場合には、ぜひ出席して下さい。飛び込み大歓迎です。逆に、出席ということになっているのに欠席される方も結構います。これは本当に幹事泣かせ。
   予定が変わった時は早めにご連絡下さい。

  問い合わせ、連絡先  佐藤拓哉  046-841-8622  メール: 3354407801@jcom.home.ne.jp


TUWVOB会

2002年会計報告

(東京口座)
1.収 入
 前回から繰越 339,209
 OB会費(17人) 41,000
  利息 57
          380,266
2.支 出
 会報 印刷 8,400
 送料 13,220
 新年会案内 320
 封筒 1,215
 事務用品、通信 845
  次回繰越 356,266
          380,266

★★ 編集後記 ★★
OB会員に不幸があった場合、OB会として次のように対応しています。
@本人または配偶者に不幸があった場合はOB会として対応する。
A葬儀に間に合う場合は同期の誰かがOB会名で生花を出す。費用は後日事務局に請求する。
B 葬儀に間に合わなくて後日同期の方が線香をあげに行く場合は、OB会名の香典(本人は1万
  円、配偶者の場合は5000円)を持っていってもらう(事前に事務局に連絡)。費用は後日事務
  局に請求する。
Cそれ以外の場合は、あまりおそくならない限り事務局から香典を郵送する。

                年会費は1000円です。1ペ−ジ目の口座に