ボクの北八ヶ岳
8期(昭和44年卒) 佐藤 良子

ボクの名は「岳弘」。妹は「雪子」。ごらんのとおりボクたちは親の趣味を押しつけられて人生のスタートを切りました。その日(OB山行)も本当はボクは風邪が治り切っていなかったのです。三日前高熱で幼稚園を休んで、未だに微熱が続いているのに、お母さんは自分が山に行けなくなるのをひたすら恐れて決してボクの体温を測ろうとしません。微熱をおしてボクはこの〇〇〇〇メートルの麦草峠まで一息に引きずりあげられてしまいました。お母さんだけ「久しぶりの清々しい山の冷気!」とか言って感動してるけどボクとゆっこはいい迷惑でした。

 それはさておき、原生林の中は威厳に満ちて、とてもわがままなど言える雰囲気ではありませんでした。北八ツの昼尚暗き原生林の奥深く入り込むと、巨大な針葉樹が逞しく根を地面に張り出してそそりたちボクを圧倒します。でも倒木を乗り越えたり、霜柱をエイッヤーットウーッとキックで崩したり結構遊び遊び歩きました。特にスリルがあって面白かったのは白駒池の氷割りでした。

ア〜ア、それにしてもひどかったのは高見石からの延々と続くあの石がゴロゴロの下りだよな〜。4才にしてボクは賽の河原をそれこそ死ぬ思いで下ったのです。お母さんたちにはひとまたぎでもボクにとっては岩登りも同然、なかなか前進しないから足は冷たくなるし惨々でした。お母さんたちは革靴だけどボクは700円のただのズックだもの。

そろそろエンストおこそうかと思って座っているとOBの仲間と出会い「坊やエライナァ〜」なんて言われるとまた腰を上げざるをえなくなってまた歩くけど、もともとエネルギーが尽き果てているから再びエンコしてしまって、こんどこそだだこねて、ひとつ誰かにおんぶしてやろうかと思っていると、またひょっこり仲間が現れて「岳弘君すごいなァ〜」なんて驚異と尊敬のまなこで見られると、またまた奮起せざるをえなくなる。かくしてボクは諸々のハンディを克服してとうとう麦草峠から渋の湯温泉まで自力で歩きとおしたわけです。これじゃ明日は8度の熱間違いなしだ。

 ところで、最もつらかったのは雪子じゃないかな。あの子は我慢強いから決して表面に出さないけど・・・。あの四角い背負子に入れられっぱなしで手足は冷えるばかり、鼻水は垂れるし、ほっぺは寒さでまっかっか。おまけにお母さんが茅野で紙おむつを買い忘れたままバスに乗ってしまった時には、この先どうなるかと思いました。あげくのはてに高見石の頂上ではお父さんが哺乳びんを岩に落っことして割ってしまって・・・。1才にして食欲と排せつの生命の基本となるべき二つの欲求を奪われてしまい、雪子は高見石からの絶景とは裏腹に絶望のどん底につき落とされた思いだったでしょう。

 渋の湯のおばさんに「ボク、どこからきたの?」と聞かれたから「にほん」と答えたら大笑いされて大恥かきました。こんどお母さんたちが山に行くときはどうしようかな。ホイホイついて行くのは考えものなのだが、かといって一人で留守番できる訳もない。やっぱりついて行くことになるのかな。親が主導権を握っている間は宿命と考えて諦めるとするか。

昭和52年OB会報NO8より抜粋