南極・難局・難極
6期 (昭和42年卒) 野村 彰夫

 確かに南極を夢みたこともあった。遥か昔の話である。しかし、その後の人生は南極に近い所で仕事をしていたわけではない。今の大学(信州大学工学部情報工学科)に11年前に移って、レーザを用いた大気環境の計測(通称、レーザレーダと言う)の研究を始めた。そんな折、1983年から85年にかけての3年間、国際中層大気(高度10−120km)観測計画の一環として南極の昭和基地でレーザレーダによる高層大気の観測を行うという話が出てきた。そこで、我々の研究グループに誰か行かないかと言うことになったが、当世、このような話に喜んでとびつく人はいないようである、そこで、「物好きな一人」として私が立候補したわけであります(ワングルの諸氏ならば理解していただけると思いますが・・・)。女房に「南極へ行きたいが」と伺いをたてる。冗談とたかをくくって「いいじゃないの」と乗ってきた。そこで電話をする。あっさり「内定」と決まった。かくして、第26次南極地域観測隊の越冬隊員となったわけであります。1984年11月14日に日本を離れ、86年3月末に帰国するまでの16か月間の長期海外出張である。

 越冬生活は2月1日から1年間、35名の男だけの生活が営まれることとなる。ここで隊員の構成を見てみよう。平均年齢は、32〜33歳、歴代3〜4番目の高年齢とのこと。40代が8名、30代が17名、20代が10名となっている。もう少し詳しく見ると、40代のうち、昭和18,19年生れが7名、30代では11名が昭和24,25年生れと変に集中している。それぞれの世代の特徴をみてみると、40代は、初期の南極観測の頃のことを知っているのでロマン派が多い。何故か体力がある。野球、サッカー等がうまく勝負にこだわる。マージャンは抜群にうまく年間の統計でも上位を独占(学生時代の生活がうかがえる)。30代は、真面目でよく働く。マージャンを知らない人が意外と多い。食事の時には、かたまっておかずを争いながら食べることを好む。お酒、特にビールをよく飲む。20代は、冷静沈着(悪く言うと、冷めている)。趣味は多種に渡り何でもよく知っている。マージャンはこの世代が下位を独占。勝負に賭ける情熱は40代より劣る。南極へきたというより、こさせられたという感がある。

 出身地別に見ると、北海道、九州、信州と言うような非都会派が多い。そこで南極では地方文化が主流となる。血液型では、何故かB型が多かった(我々の隊だけのようである)。そこで、「おれが、おれが」とか「他人のことなんか気にせずにマイペース」ということとなる。日本ではこのタイプははみだされがちであるが、南極では本当に生き生きしている(だから南極に飛ばされたのだとも言われている)。

 越冬生活では誰が偉いかと言うと、形式的にはもちろん越冬隊長であるが、しかし生活が厳しいことから生命へのかかわりかたが大きい隊員から偉くなるのである。そこで1番偉いのは調理担当の隊員である。この人達には決して逆らいません。次が機械、電気を担当する隊員ヽ次に医療ヽ通信゛“`ときて最後に我々観測担当の隊員である。そうです、我々の仕事は失敗しても誰の命にかかおる訳でもないのですから。

 食事にはまいる。日本にいてはとえも食べられないステーキが週2日程でたり、フカヒレスープやホアグラ‥・等高価なものばかりかと思うと、キャベツ、キュウリ、トマト、ナス、等の野菜類は夢にまでみる。次の隊が来るとき、第1便で何を持ってきてもらったかと言うと、それはキャベツと濁っていないビールでありました。帰国してから2か月程、肉は全く食べたくないということから、その食生活がわかると思います。

 また、南極では、「食糧パニック」という恐ろしいことが起こります。「酒がなくなるらしい」と噂が出れば、加速度的にみなで酒を飲んでしまうのである。我々の時には、「インスタントラーメンパニック」が起きた。ハイペ〜スでみなが夜食に食べてしまうので、途中で出荷停止となってしまった。こうなると大変なのである。しかし、こうなるとあらかじめ予測していたと言うより経験者から事前に情報を得ていたので、私は個人装備で段ボールで2箱インスタントラーメンを持っていったのである。ところが、これを一人でこっそり食べるのは至難の技である。お湯は皆のいる食堂にしかないこと、個室でこっそり食べようとおもっても5mmのベニヤ板のみで仕切られているだけなので、頭から布団をかぶって食べても音の秘密は保たれないこと、ごみの処理に困ること等、困難が沢山あるのです。こっそり食べた事がばれると、みなの冷ややかな目線にさらされるとともに人間関係があやしくなるのである。

 内陸旅行に6か月程出掛けた連中では、悲惨な「タバコパニック」が起こった。原因は明確である。禁煙をしていたメンバーが旅行の途中でそれをやめてしまったため、タバコの調達量にくるいが生じたのである。そこで彼等は、タバコが底をついてからは、紅茶の葉、インスタントコーヒ、段ボール紙等、火の付くものを片っ端からタバコがわりにしていた。ちなみに、段ボールの側面に貼ってあった紙が一番美味しかったとのことです。

 帰国してから困ったことは、「南極ボケ」である。南極では、金はいらない、人の物は自分の物、自分の物は人の物とまさに原始共産社会であり、いたって平和なところである。自分の生命の維持だけ考えておけばいいのである。会議はない、書類は回ってこない、電話はかかってこない、通勤ラッシュはない等シンプルな生活パターンである。そこへきて、外の世界からの情報が入ってこない。このような状況で1年生活すると、老人性痴呆症に似た症状が現れてくる。第一には、物忘れがひどくなる。また、他人の物と自分の物の区別ができなくなる。そこにタバコがあれば、誰の物だろうと黙って吸う。そして自分のポケットに入れてしまう。他人の服や、靴など平気で履く、人の洗濯物を持っていく。これらのことを全く罪の意識なくやれるのである。また、不思議なことに、持っていかれたがわも、何も気にしないのである。

 さらに、金を払うという習慣を忘れてしまう。このようの人間が帰国すると回りの人にとってははなはだ都合が悪いらしい(本人は別に何とも思わないのだが)。一番あぶないのは、飲屋にいったときである。飲むと特に「南極ボケ」がでる。無銭飲食となる。しかし、タバコやライターなどを忘れる場合が多い。これも、時によっては、後でポケットのなかを見てみると増えている場合もある。トータルで帳尻があっていると思う。このような症状の中で回復したものもあるが、いまだにリハビリ中のものもある。今後、小生と付合う事になる方があるかと思いますが、これらの点をよくご理解して頂きたく宜しくお願い申上げます。

昭和63年OB会報NO19より抜粋