故 生駒勉君を悼む


平成9年12月1日
3期 (昭和39年卒) 後藤 龍男


 10月はじめ、出張先のブリュッセルから帰宅直後、家内から「大変なことが起きた。生駒さんが亡くなった」と告げられた。前日の告別式には松木、岡、小俣と連れだって家内が出てくれたという。単身赴任先での突然の不幸だったので、仲間にもなかなかうまく連絡が付かなかったらしい。気だけは万年青年みたいなつもりでいても、年とれば誰かいつかはと思ってはいたが、こんなに早くその時期が来るとは思いつかず、言葉もなかった。

 ちょうど60年安保の年に大学に入った。騒然とした雰囲気のキャンパスで、生駒やほかの仲間違と出会った。以来40年近くが過ぎたことになる。連日のストライキで休講続きなのをいいことに、川内の部室に入り浸り、山に出かけた。生駒は現役入学で物理的な年齢は仲間のうち一番若かったが、当時から妙に分別くさく大人びたところがあった。彼の世知に長けた言動は、ちょうど大人の入り□にさしかかった年代には魅力的で、仲問内で一目置かれる雰囲気があった。入部して初めて、合宿で二口峠に行ったとき、それまで山の経験など一度もなかった生駒はひどい靴擦れをおこした。それでも青い顔をしながら、痛いともいわずがに股で歩き通した。経験者なら誰でも知っているが、痛くないわけがない。悲壮なやせ我吸なのだが、痛いなどと□が曲がっても言わないのが“生駒式美学”であった。

 3年生の秋、学期末試験の後、松木と3人で鳥海山に登ったことがある。下山中、紅葉があまりに見事だったので、私がたびたび感嘆を口にすると、「お前はまったくどうしようもない感激性だな」と馬鹿にして取り合わない。そのくせ酒田の駅前旅館で、枕を並べて寝付くまで、見かけによらずナイーブな人生論を、眠くなるまで仕掛けてきたのは彼の方だったことを今でもよく覚えている。

 仲間が新婚旅行から帰った直後、その新居に押し掛け、一晩徹夜麻雀をするという馬鹿なルールがあった。大抵は新婚早々の奥さんを困らせないよう事前通告したが、彼は意図的にそれをせず、我々悪童仲間をいきなり予告も無しに新居に連れ込んだ。翌朝、朝食の用意を言いつけられて、何の準備もなく困り果てている奥さんに、「あり合わせでいいぞ」などと偉そうに亭主風を吹かせてみせる。この生駒式美学に対し、奥さんから「私、魔法使いじゃありませんから」とスマートに逆襲されていたのを覚えている。

 仲間で北八ヶ岳に伝蔵荘を作ったのは、皆子供が産まれたばかりの安月給の頃だった。安普請のため、ベランダは手すりだけで、下の横木をつけられなかった。よちよち歩きの子供が落ちないかと心配すると、生駒は「ここから落ちて死ぬような子は、どうせいつか可処かで死ぬ。心配しても始まらない」と言う。結局横木無しのまま30年たったが、事故にあった子供は一入もいない。親馬鹿をクールに突き放した彼自身も、一流の達観からくる不養生なところが多分にあった。昔からあまり体を大事にする方ではなかった。その彼が、仲間内で一番酒に弱いくせに、仕事柄単身赴任先では飲めぬ酒を飲んで頑張ったのだろう。おそらく彼のことだから、少しくらい体調が悪くても、人間ドックなど馬鹿にして近寄らず、いたわらなかったのだろう。

 昭和30年代の古き良き仙台の街、二口峠や東北の山々、川内の米軍兵舎跡のきたないTUWVの部室、幾たびかの山行、伝蔵荘、その他諸々の懐かしい記憶につながる数少ない友を一人失った。

                 合掌。

平成9年OB会報NO28より抜粋