日本列島横断 (2002.6.24〜8.2)
36期(平成9年卒) 大森 秀一

 後先考えずに会社を辞め、好きなカメラを担いで親不知に向かったのは3年前の梅雨だった。今思えば、つまらぬ会社勤めからの逃避が半分、『自分は一体何がしたいのか?』自分探しの目的が半分であったろうか。アルプスの尾根伝いに、一人日本海から太平洋まで歩いてみれば、何か見つけられるような気がした。

 果てしない縦走であるから、気力・体力はもちろん、計画段階では熟慮の上に行程を練らねばならなかった。ヤマケイ、岳人の記録は全くあてにせず、地図との格闘がふた月ほど続いた。特にエスケープルートは大作となってしまい、書き終えたときにはそれだけで満足してしまったのを覚えている。

        
        

1. 親不知〜北アルプス前半(2002.6.24〜7.3)
 海抜0mの親不知海岸を意気揚々と出発。栂海新道をひたすら南下する。梅雨時である。連日雨に祟られ、寒さに震えた。自分以外の登山者は、初日を除いて誰もいない。熊には2度会う。朝日岳北面は雪渓がベッタリと張り付き、ルーファンに苦労した。予想外の残雪で、朝日岳から雪倉岳へは通行不能の事態に陥る。どうしても諦めきれず、蓮華温泉まで一度下山し、根性で白馬岳に登り返す。前半戦の難所・不帰ノ嶮を抜けたときはホッとした。以降、唐松〜五竜〜鹿島槍と風雨に晒されながらも快調に走破。相変わらず稜線には誰もいない。小屋は毎日貸切状態だ。冷池から針ノ木越えは、この旅最大の危機に見舞われた。稜線で雷に遭遇し、黒焦げ一歩手前の恐怖。針ノ木岳の下りでは、道が雪渓で消滅。急斜面を滑落しないように半ベソ状態で道なき道を下る。小屋が見えたときはとても人恋しかったものだ。この時期の北アは冬山アイゼン、ピッケルが必携であったことを何度も悔いた。

2. 北アルプス後半(2002.7.4〜9)
 船窪小屋では小屋の方々や他の登山者と一緒に酒を飲み、ずいぶん賑やかに囲炉裏を囲んだ。烏帽子岳ではコマクサが出迎えてくれ、雪渓の融水で頭を洗った爽快感が今も印象に残る。ここから北ア裏銀座の核心部である野口五郎、鷲羽岳を経て三俣山荘へ。ガランとした小屋の2階、コーヒーを飲みながら、夕日に染まる北鎌尾根を眺めた時の感動は一生忘れまい。翌日は風雨の中、三俣蓮華〜双六〜西鎌尾根と黙々と稜線を伝う。千丈沢乗越から槍ヶ岳までは暴風雨となり、這って進んだ。北穂の頂からは、大キレット越しに暮れる槍ヶ岳を眺め、ひとり物思いに耽る。北ア最後の日は、奥穂、前穂と経由して岳沢を一気に下り、2週間ぶりに下界の人を発見。河童橋の袂に宿をとる。

3. 乗鞍岳〜御嶽山〜中央アルプス(2002.7.10〜18)
 台風の中、上高地から釜トンネルを抜け、白骨温泉を経て乗鞍岳を目指す。1週間、百数十キロにわたる地獄の道路歩きはここから始まった。乗鞍スカイラインでは、通行止めの道路を大手を振って歩く。その一方で、乗鞍山頂から野麦峠への道は半ばヤブに埋もれようとしていた。ここから御嶽への道路歩きも、雨中、足の痛みに比例して惨めな気持ちになる。コンビニはおろか、自動販売機さえない。誤算だった。御嶽登山ではD、B、Lと温泉饅頭で通し、あまりのひもじさに泣けた。なぜか道にも迷い、さらに御嶽の頂で壊れた避難小屋と落雷の恐怖と戦う。頂上から木曽福島町に至る30kmの修験の道歩きにも雨の中閉口した。こうして御嶽の怖さと雄大さを肌で感じた。旧中山道の宿場町には、スーパー、レストラン、食堂、宿屋と一通りあり、3週間ぶりに文明の味と再会。風呂にもゆっくり浸かり、思わず頬が緩んだ。台風で1日停滞の後、中アへ向かう。登山道が崩壊していたため、遠回りルートを採り無事に木曽駒を越えた。翌日は『聖職の碑』でLをとり、西駒山荘から一気に下山。そば街道と呼ばれる道を伊那谷に向かって下りる。途中、谷を隔てて南アの山々が見えたときは感慨深かった。

4. 南アルプス(2002.7.19〜28)
 伊那から高遠を経て戸台へ向かう。車が猛スピードで通り過ぎてゆく脇をてくてく歩く。田舎のバス停で雨宿り。私の時間はゆっくり流れてゆく。戸台の橋本山荘のおばあちゃんは、今も元気でいるだろうか。大変お世話になった。北沢峠へは登山道荒廃のため、南ア林道を忠実にトレース。賑わう峠を人通りも少なくなった頃に出発した。小屋は軒並み定員オーバーのため、この日は小仙丈ケ岳手前のC2700付近でビバーク。やっと梅雨明け宣言が出たが、とても寒くて眠れず。翌日は仙丈ケ岳を越えて野呂川越を両俣小屋へいったん下る。ここから北岳へ登り返し、以降、白根三山、塩見岳への静かな道をたどる。さらに南下し、三伏峠の花畑、小河内岳小屋からの富士山は見事だった。10年ぶりに荒川三山と再会し、俄雨降る中、赤石岳を一気に登る。頂上小屋で震えていると、夕方から雲が切れ、見事な山並みが足下に広がった。赤石岳からは百間洞を通って最南端の3000m峰・聖岳を目指す。南ア南部のバス便が途絶えた影響か、シーズン中というのに縦走する者は数人しかいない。深山の趣が抜群だった。聖岳から一気に下って椹島、二軒小屋と林道を北上。二軒小屋での一夜はこの旅で最も快適だった。南ア最終日は伝付峠を越えて甲州側へ下りた。梅雨の大雨で登山道が崩壊しており、ここも苦労した。久しぶりにアスファルトの道を歩いて大滝温泉泊。

5. 富士山〜田子の浦(2002.7.29〜8.2)
 大滝温泉から本栖湖への約40kmの道路歩きは、死ぬほど長かった。富士川の鉄橋で最低高度 海抜210mとなり、ここが事実上の富士山登山口となった。この後、脱水症状になりフラフラになって本栖湖へ。洪庵荘からは旧5,000円札の富士山は見えず。翌日、精進口から青木ヶ原の樹海に道を採る。自殺防止呼びかけ箱を脇目にしばらく行くと、林道が交錯する中、またも道に迷う。道はあるのだが、磁石が利かず太陽も見えないので方向が分からない。このときばかりは焦った。青木ヶ原の恐ろしさを痛感。たまたま営林署の人と出会い、事無きを得た。その後、何もない旧登山道を五合目へ。都会並みの喧騒には目を疑った。翌日、日本海を出発して38日目にして富士山・剣ヶ峰に立つ。感慨無量。下山時、宝永山麓で熊とニアミスし、危うく食われそうになった。あとは夏空の下、ひたすら長い道路歩き。富士宮、富士市を抜けて8月2日午前10時過ぎ、太平洋に到着。(’05.12.9 記)

計画、記録詳細 : http://www.interq.or.jp/tiger/oomori/index.htm
平成17年OB会報NO36より抜粋