チベット紀行
5期 (昭和41年卒) 櫻 洋一郎
 8月上旬から中学時代の同級生2人とチベット西部を旅行し、カイラス山・トレッキングをしてきた。3人は夫々この山に永年の想いを温め続けていた。学生時代に読んだスウェン・ヘディンや河口慧海のチベット探検記にその山容を思い浮かべ、なんとか我が足で歩いてみたいものと・・・・・。

 ネパールの首都カトマンズから陸路、中・尼国境を越え、ランドクルーザーで標高4,000m〜5,000mの高地1,000kmを6日間かけて西走。仏教徒、ヒンズー教徒の聖地マナソワール湖、カイラス山をトレッキング。復路、チョモランマ(エベレスト山)を中国側ベースキャンプから俯瞰しようという、21日間の旅。実はヒンズー教徒(インド人)巡礼団14人のツアーに我々がジョインしての旅であり、貴重な経験をしたがその話は又の機会にする。

 高度順応 : 最初の宿泊地ニャラムは3,750m (富士山の頂上)。高山病でフラフラ。ここに一日停滞、4,000mまでのハイキングなどで高度順応を計る。ダイアモックス(血管を広げ、血行をよくする薬、頻尿に悩まされる)の三日間服用で高度にすっかり慣れたが、流石に酒を飲む気にはなれなかった。

 ランクルの旅、行きはよいよい、帰りは怖い : 乗用車は全て4輪駆動車、トヨタのランドクルーザーのみ。往路は拍子抜けするぐらいに順調に走破。事前の情報では河川の氾濫で渡河不能、目的地に到達出来ないこともあり得る、といった悲観的な情報も交錯し、我々も覚悟を決めていたが・・・・・。ドライバーの話によれば、近年、主要河川には橋梁を架設、勿論砂利道ではあるが2車線道路が完成とのこと。ところが、問題は帰路。数日前の降雨で川は氾濫、道は方々でズタズタ、道路上でランクルはスタック。その度に同行のトラックに牽引を頼む羽目に・・・・・。おまけに頼りの車両軍団はパンク、スプリングの破損…と日に日に劣化。極めつけは連続2日間、夜半24時過ぎ目的地到着といったタイトな日程。暗黒の中、道幅すら定かでない道を探し、崖のような急坂を上下、17,8時間の連続走行に皆声なし。お陰で、チョモランマBCトレッキングはすぐ近くまで到達していたにもかかわらず、日程の関係で諦めざるを得なかった。帰りは悪路の旅を満喫。

カイラス・トレッキング : カイラス山は6,714m。聖山が故に未踏峰。独特の形をした独立峰。トレッキングはその周囲52kmを二泊三日で歩く。チベット人たちはコルラ(巡礼)、たった一日で駆け抜ける。一日目、落差数百mに及ぶ、いく筋もの滝が両側から落下する明るい谷“黄金渓”インダス河の源流を辿る。いた、いた、五体投地礼の巡礼者が。我々が飛び石の上を渡った沢も平地と同じように水の中に倒れ伏し、ずぶ濡れで起き上がり、何事もなかったように進んでいく。尺取虫の如き歩みだが、その迫力には息の止まる思い。カイラス山は行く先々でその山容を変え、その日のキャンプサイト、ディラプール・ゴンパ(寺院)で極めつけの北壁を見せる。あいにくモンスーンの時期、とうとう頂上は見せてくれず。夜の気温は0℃近くまで下がり、羽毛服が役立つ。

 二日目は最難関、標高5,700mのドルマラ(峠)までの標高差800m近い登り。4,900m(酸素量が平地の半分)からの登りだけに容易ではない。一足歩いてはゼイゼイと息をつなぎ、二足歩いては天を仰ぎ、“懺悔坂”、慧海言うところの、“三途の逃れ坂”を登る。峠はタルチョ(経文を印刷した五色の旗)が翻り、脱ぎ捨てられた衣服が足の踏み場もないくらいに散乱。ここからは急な下り坂の連続。そして再び渓谷沿いの道となって本日のキャンプサイトへ。三日目はズルフク・ゴンパを越え、ダルチェンに戻って一周を終える。三日間を歩き切った充実感と、高山病にならなかった安堵感で至福のひととき。

  

 中国によるチベット併合、ダライ・ラマ14世の亡命、文化大革命時の仏教施設の徹底的な破壊でチベット文化は壊滅的は被害を受けた。ゴンパ(寺院)などは復旧されつつあるがチベット人の心までは癒される筈もなく、怨嗟の声ばかり。中国政府としても本来は見せたくない場所なのだろうが外貨獲得の貴重な遺産だけに痛し痒し、といったところだろう。

 チベット高原は夏の盛りとはいえ乾ききった荒地の中に緑はほんの僅か。勿論、立木は皆無。国境を越えたネパール側は緑滴る亜熱帯、しっとりと湿った空気と緑の有難さを実感した旅だった。

 (詳細は http://www5f.biglobe.ne.jp/~denzasou/index.html に)

平成17年OB会報NO36より抜粋