ワンゲル雑感  ― 三代目部長を務めて ―
ワンダーフォーゲル部・前部長 10期(昭和46年卒) 野家 啓一
 さる10月に開かれたワンダーフォーゲル部創立50周年記念の祝賀会には200名を超えるOB・OGが集まり、懐かしい面々にお目にかかれて本当に楽しい時間を過ごすことができました。まるで昔の部室の賑わいが再現されたかのような雰囲気で、山仲間の絆の強さを改めて感じた次第です。多岐にわたる準備に犬馬の労をとられた実行委員会の皆様に対し、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 私が鈴木禄弥先生、吉田公平先生(第5期)の後を引き継ぎ、3代目の部長に就任したのは1987年10月のことです。たしかその年の夏に、禄弥先生の紫綬褒章受賞のお祝いの会が東京駅近くのホテルで開かれ、その席で「売り家と唐様で書く三代目」という川柳を引きながら、部長をお引き受けするに当たっての自戒の念を述べたことを覚えています。私としては数年間のワンポイント・リリーフのつもりでしたが、副部長を務められていた直江真一さん(第14期)が九州大学へ転出されたこともあり、結局は2003年3月まで足かけ16年の長きにわたって部長を務めたことには、自分でも驚いているところです。それでも、現部長の植松康さん(第16期)も現副部長の土屋範芳さん(第22期)もともにワンゲルOBですので、安心して後事を託すことができました。

 部長になってまず驚いたのは、「メッチェン」(女子部員を意味するこの言葉も最近では死語になっており、「ワンダーフォーゲル」がドイツ語であることを知らない現役部員もいるようです)が一人もいない状態が数年以上も続いていたことです。さいわい、白幡彩さん(第27期、現姓:神)が入部して伝統は復活しましたが、メッチェンの扱いを知らない男性部員にまじっての活動は、並大抵の苦労ではなかったように思います。その意味で、ワンゲルメッチェンの中興の祖としての彼女の功績には大なるものがあります。また、その当時の主将を務めた平塚晶人さん(第27期)が現在は山岳ライターとして多方面の活躍をしているのも、私にとっては嬉しいことの一つです(彼のノンフィクション『二人のアキラ、美枝子の山』文芸春秋は力作ですので、ぜひご一読ください)。

 もう一つ驚かされたのは、ワンゲルの活動形態が私たちの頃とは大きく様変わりしていたことです。合宿に沢登りが取り入れられ、装備もキスリングからミレーザックに変化するとともに、夏合宿の山行地域も北は日高や知床から南は石垣島まで全国に広がっておりました。そのため、夏合宿の開会式で部員たちを励まして送り出してから、全員無事下山の報告が在仙本部から入るまでの二週間ほどは、台風の位置や前線の配置など毎日の天気予報に気が揉めて仕方がなかったことが思い出されます。禄弥先生や公平先生のご苦労が思いやられたことでした。それでも、沢登りの途中に骨折などの事故はあったものの、この50年間に人身事故が1件もなかったことは、クラブとして誇ってよいことだと思います。

 少々残念であったのは、1990年代の終わりごろから部員数が二桁を割りはじめ、時には2〜3人にまで減少したことです。キャンプファイアーを囲むにも円陣が組めないという状況には、いささか寂しいものがあります。これには学生気質の変化が大きく関係しており、3Kと呼ばれる学友会の運動部よりは規律や訓練のゆるやかな同好会の方を好む傾向が、それに拍車をかけています。最近では山に登っても若者の姿は見えず、出会うのは中高年ばかりとなりましたが、現役部員の皆様にはぜひ新入生に山登りの楽しさと素晴らしさを伝えていただき、せめて二桁の部員を確保してくださるよう期待いたします。

 最後に、私が三代目の部長を16年にわたって無事務めることができましたのも、現役部員の奮闘とOB諸姉兄のご支援があってのことです。ここに心より感謝申し上げますとともに、10年後に東北大学ワンゲルの還暦祝いに再び集まることができますよう、現役諸君の一層の活躍とOBの皆様方のご健勝をお祈りいたします。
平成20年OB会報NO39より抜粋