ワンゲル立ち上げの頃
1期 (昭和37年卒) 加藤 哲男
[ ワンゲルの立ち上げ ]
 東北大に初めてワンゲルが誕生したのは、昭和32年と記憶しております。
今回ここに来る前に、東北大にはじめてワンゲルを立ち上げてくれた先輩の一人、北川泰正さんに手紙とメールで、当時のいきさつを確認しましたが、私の記憶に間違いなく、私が東北大に入学した昭和33年の前の年、昭和32年(1957年)に東北大ワンゲル同好会が設立されています。

 当初、実績が全くないため、学友会のクラブ(部)として認められず、同好会からの出発ということで、ともかく東北大にワンゲルが誕生しました。

 同好会が出来たもう一つの契機に、東北学生ワンダーフォーゲル連盟の設立の動きがあったとのことです。連盟は、東北大、東北学院大、福島大学、岩手大学で構成され、北川先輩は、東北大のワンゲル同好会の設立と併せ、連盟設立にも努力されとのことでした。また連盟設立に際しては、登山部系とハイキング系の路線対立があったという話を聞いております。

[ 同好会から部昇格へ ]
 次に、何故ワンゲルが同好会から部に昇格できたのかについて話してみたいと思います。同好会では、何しろ金も備品もなく、もちろん部室もなく、山行きの計画を立てたら、そのつど同行の仲間を集め、備品を借りて出かけなければなりませんでした。

 何とか備品の一つでも手に入れる手段がないかと日ごろ考えていたところ、学友会の体育部に昇格できれば、わずかだが予算もまわってくるということに気づきました。 そこでワンゲル同好会も3年になり、常連会員もそこそこ集まり、活動実績もそれなりに積み重なってきていたので、早速、学友会体育部に部昇格の申し入れに行きました。ところが、既存の部は“ハイではすぐ入れてあげましょう”とは言ってくれませんでした。当時の学友会の会長は、確かバトミントン部キャプテン鈴木さんという人だったと思いますが、彼が、それならともかく会議に出てきて、皆さんに直接お願いしろと言ってくれました。そこで確か私と同じ法学部の倉持君だったと思いますが、会議に出席し学友会の皆さんに部昇格のお願いをしました。しかし、やはり、皆さんは簡単にウンと言ってくれませんでしたが、最後に、鈴木さんが、“そんなこと言わずに入れてやれや”との一言があり、辛くも部昇格が果たせたと言うのが、部昇格のいきさつです。

[ 鈴木禄弥先生に部長就任をお願いしたいきさつ ]
 部への昇格が決まり、学友会の体育部の部になると、担当教官の部長就任が必要になります。そこで部長を誰にお願いしようかと言うことになりました。私は法学部の学生で、法学部以外の先生は全く存じ上げませんでしたので、まず法学部の先生に目をつけました。若い先生でワンゲルの部長になってくれそうな人と言うことで、国際法の小田滋先生、政治学の宮田先生の名が上がりました。小田先生は、すぐ候補から消え、次に宮田先生の研究室を訪ねると、先生は我々の話に耳を傾け、特にワンゲル発祥の地、ドイツのワンゲル運動に興味を示され、話をよく聞いてくれました。しかし、先生はそのあとすぐドイツ留学の予定があり、部長は引き受けていただけませんでした。

 ちょうどそんな時、鈴木禄弥先生が大阪から東北大の法学部に移ってこられました。先生はまだ若く、奥さんも若く美しく、この先生なら部長を引き受けてくれるかもしれないと、早速、先生の研究室を訪ね、部長就任をお願いすると、鈴木先生は快く引き受けてくれました。また先生の研究室には、奥さんのハツヨ先生がいつも一緒におられ、禄弥先生に山行きの同行をお誘いすると、どちらかというとハツヨ先生の方がいつも積極的だったように記憶しております。

[ 当時の活動状況(S33,34年) ]
 最後に、ワンゲル立ち上げ当時、昭和33年、34年の頃の活動状況についてお話させていただきます。私がワンゲルに入った昭和33年(1958年)という年は、教養学部が富沢から川内に移った最初の年でした。米軍キャンプの跡地を利用したキャンパスだったので、外目には、緑の芝生に白い建物と言った異国情緒あふれる美しい風景のキャンパスでした。しかし、教室その他の施設は、蒲鉾兵舎や木造の米軍施設を改造し、その上に白いペンキを塗った、まあそれはお粗末なものでした。

 キャンパスの真ん中には、白い教会の建物が残っていて、その近くに掲示板があり、そこに“泉岳登山者募集 ワンダーフォーゲル同好会”といったワンゲルの同行者募集のビラが貼り出されていました。私もそのビラを見て、初めてワンゲルに参加しましたが、当時の活動は、こうしたビラがまず掲示板に貼られ、同好の仲間を集め、集まってきた学生と一緒に山やハイキングに行くと言ったものでした。

 そのような活動が何回か繰り返されているうちに、次第に常連のメンバーが出来てき、またその常連のメンバーだけで行くということもありました。このような活動でも、泉岳をはじめ船形山、蔵王、栗駒山、岩手山といった東北のめぼしい山はほとんど登りました。

 また、当時の活動の特徴のひとつに、山だけでなく、丸太沢に飯ごう炊爨に行ったり、月見ワンゲルといって、月を眺めながら夜を徹して何十キロも歩くとか、奥の細道紀行と称し、最上川沿いをキャンプしながら何日もかけて芭蕉の後をたどるとか、ワンゲル本来の“おおらかで、自由に、山野をかけめぐり、自然に親しみ、自然を楽しむ“というものがありました。

 また、当時は、まだ食料事情が良くなく、三陸海岸をキャンプした時は、一日二食の食事に、空っ腹で食べた飯ごうの飯のうまさは、今でも忘れられません。今の飽食の時代の若い人には想像し難いと思いますが、ジュースと言えば粉末ジュースが開発された頃で、その粉末ジュースを水に溶いて美味しく飲んだ思い出も、今なおはっきり記憶に残っています。

 その後、2期の多田さんたち後輩が入ってきて、ワンゲルの活動も次第に体育部の活動になっていきました。

 現在のワンゲルの活動は、体育部の部として、合宿、訓練、冬山といった非常に厳しい活動になっていると聞いております。 私は、そのことをとやかく言うつもりは全くありませんが、ただ、ワンゲル立ち上げ当時の活動が、“ワンダーフォーゲル、渡り鳥、名前のように、おおらかで、自由に山野を駆け巡り、本当に自然に親しみ、自然を楽しんだものだった” という事を、皆さんの記憶の片隅にとどめていただければ、非常にうれしく思います。
平成20年OB会報NO39より抜粋