TUWV創部50周年記念登山報告
TUWV50実行委員 5期 (昭和41年卒) 瀬尾 勝之
 我々仙台住在のワンゲルOBで、4期の平塚先輩が中心となって“シニアの会”を結成し、新年会・忘年会や3月の新OBの歓迎会参加等で親睦を深めているが、今年1月末の新橋亭OB会(東京)に参加した平塚先輩から50年式典の開催日と開催地の他、各イベント担当の実行委員まで決まったとの連絡を受けた。また小生の担当は「記念登山」の実行委員との事。さすがワンゲルの行動力、「やる事が早い!!」と感心した次第。なお、記念登山の実行委員は小生の他、櫻洋一郎氏(5期)と桃谷尚安氏(9期)の3名である。

 当初、仙台シニアの会では、昭和36年4月発行の部誌「報告」3号に、昭和35年(1960年)6月2日を以って「この日を創立記念日とする事」と明記されていたので、式典は2年後と想定していた。したがって小生は多少は慌てたが、日時や場所等の基本的な事項は決定しており「後は実行あるのみ」で気は楽である。この基本形式を基に早速行動開始。スキーシーズンたけなわの2月中旬に先ずは最初の現地状況の視察を行った。

 この時点での問題点は、@参加人数。A当日の天候。B費用。等である。この3点は現地までの交通手段や記念セレモニーの内容に影響するからである。当初は、参加人数予測はせいぜい70名程度と想定し、イベントも単に山麓〜頂上までのピストンではつまらない。泉ヶ岳は仙台市民の憩いの場所であり、規模的にはチンケな山ではあるが、我々ワンゲル部員にとっては毎年この地でテントを設営し「新歓合宿」に始まり「最終合宿」に終る神聖なる思い出の山なのである。そこで記念となるイベントは、参加者全員が集合して飲食しながら歓談するスタイルを基本として、当日の天候や事前の準備作業にも配慮し山麓にある民営ロッジに交渉して2階のレストランに場所を確保し、エッセンは仙台名物芋煮鍋とした。また交通手段も、定期路線バスでは出発が地下鉄泉中央駅となり集合に不便なので、貸切バスをチャーターする事とした。人数次第では路線バスよりも割安である。

 さて、主催者としては肝心の参加者数があまりにも少人数であれば盛り上がりに掛けるので多くの参加を期待したが、3月の第1次募集で、なんと参加者は130名以上となり正直言って驚いた。予想の倍である。逆にプレッシャーも掛かった。

 6月の第2回仙台実行委員会で“50周年記念登山(瀬尾私案。VERSION@)”を提示した。実行委員会における協議事項は当然の事ながら、前日の記念式典が主体となるので、記念登山に関してはあまり細かい意見は無かったが、各委員からの提案も加味して本案を基本に実行する事となった。その後、ロッジや市バスとの数度の交渉や打合せを実施し、式典当日参加者に配布された計画書の通りとなった次第である。

 当日はブッツケ本番とはなるが、基本的には他の登山客には十分配慮すべしとして、@登山のプロ集団としてマナーを重視する事。ATUWVと分る様に名札を付ける。B可能な部員はTUWVの部章ワッペンの付いた旧制服の着用する。等である。

 さて、10月4日(土)記念式典開催日当日の早朝に泉ヶ岳ロッジに行き、支配人と最後の打合せを実施し、最終参加人数、芋煮鍋の材料や、飲み物の数、スケジュール等および、予算や支払い方法の再確認を行った。また、小生自作の幅3mの横断幕を、明日9時の集合時間までに広場に掲げる様に依頼した。帰路の途中で市バスの実沢営業所に立ち寄り、バス発着時刻や場所、ドライバーの氏名と携帯を確認し、2台分の支払いも済ませた。

 これで、後は明日の本番を待つのみで、午後は式典会場に向った。会場では素晴らしい計画書が出来上がっていて、記念登山の企画も事前の打合せ通りに詳細に記載されており、これがあればブッツケ本番でも問題はないと確信した。

 さて、前日の記念式典の興奮も覚めやらぬ5日早朝、天候はまずまずの曇り空。集合1時間前に仙台駅西のバス乗り場に行ったが、さすがにまだ誰も居ない。30分も過ぎた頃、三々五々集まってきた。皆さん前日は遅くまで飲んでいた様子で、目はトロンとしていたが、体調は良さそうだ。バスはほぼ予定通り仙台駅前を発つ。バスの中では昨夜の2次会など、思い思いの話題で盛り上り9時前にロッジに到着。すでに自家用車組が集合しており、お互いに横断幕とゲレンデを背景に写真撮影などをしていた。

 参加者はドタキャンもあって予定より少なく約120名となったが、計画通りに年代別に15班編成で整列し、班毎にパーテイーリーダーを選定した。9時15分の記念登山実行委員の櫻氏(5期)の挨拶で始まり、幹事からのガイダンスの後、参加者全員で山を背にして集合写真を撮影。現役部員で編成する本部先発隊を先頭に年次毎に1班から頂上又は水神を目指して順次出発した。



 小生は、現地本部としてロッジに残り、14時から開始するセレモニー会場の準備を整えながら、本部先発隊、中間隊、後発隊(共に現役部員)との無線連絡を聴きながら、各班の登山行動状況を把握した。12時半過ぎに山頂の後発隊から最終組出発の連絡が入り、ほぼ予定の時間通りで先ずは14時のセレモニーには間に合いそうで安心した。

 13時過ぎには平塚副実行委員長の率いる水神コースが到着し、まもなく山頂コース隊も次々と下山し、14時前に無事最終組が到着。最初は整然と隊列を組んで出発したが、現役時代とは違って、到着時に隊列が整って下山したのは若手の2〜3パーテイで、他は市民マラソンのゴールの様に、隊列も乱れバラバラに下山して来たのは年のせいか? 記念セレモニーが始まる14時頃には小雨がパラツキ始めたが全員無事で先ずは安堵した。

 記念登山のセレモニーは後藤委員長の挨拶で始まり、メインイベントの芋煮鍋を肴に祝宴の開始である。普通はここで“乾杯の発声”となる所ではあるが、ゲロッパチならぬ芋煮の入ったどんぶりを前に、昔懐かし「ご飯だご飯だ、さあたべよ〜〜」を合唱して始まった。この「ご飯の唄」は、部員数が多く数パーテイの編成が可能であった時代の遺物であり、10期生までしか経験が無いらしいので、リードは記念登山実行委員の桃谷氏(9期)にお願いした。参加者の殆どは卒業以来か、または初めて唄う歌であろう。

 メインディッシュの芋煮鍋は、参加人数よりもかなり多めに芋と肉を用意したつもりであるが、最初の盛付けが片寄ったせいか野菜と汁ばかりの人も居た様で、クレームが付いたのは幹事としては大変申し訳なかった。式典の途中で、佐藤拓哉OB会幹事長の事務連絡の他は、各年次の方々からもスピーチを頂く予定ではあったが、前日の式典同様に各テーブルでの雑談で盛り上がっていたために、これは中止した。最後に、現役部員の生野主将の音頭で部歌(放浪の歌)を合唱し、平塚副委員長の締めの挨拶で修了となった。

 会場の後方付けを現役部員にお願いして会場を後にした。外は小雨模様であったが仙台駅行きのバスも手配通り広場に到着しており、全員無事に帰路についた。

 帰りのバスの中で、思わず“雪山賛歌”の最後のフレーズ「山よサヨナラご機嫌よろしゅ〜〜」が口に出たが、この歌を口ずさむのは何年振りであろうか。なお、セレモニーの挨拶の中で後藤実行委員長が「次回は60周年」との発言があった。ワンゲル発祥のドイツには馴染まない習慣だろうが、我が国で60年とは「還暦」と言う重要な節目である。この50周年の実績と反省を基にして、若い後輩達が中心となって是非実現して貰いたい。小生現在66歳、老後の楽しみにしている。
平成20年OB会報NO39より抜粋