わたしのワンゲル時代

ワンダーフォーゲル部・前部長 5期 (昭和41年卒) 吉田 公平(東洋大学文学部)
 ワンダーフォーゲル部が創立されてはや五十年。創設者たちは二十歳前後で思い立った訳であるから、今や七十歳前後と云うことである。初代の部長であった鈴木禄弥先生は、その折は新進気鋭の教授であったが、先年に長逝されたのもそのような年回りでもあったということである。

 この五十年の内の四十五年が小生のワンゲル時代である。中学・高校時代は排球部に所属していたので、大学では別の部活をと考えていた。入学式の時にラグビー部から勧誘があったが、高校時代に肝炎を患ったので、あまりに過激な部活は敬遠した。ワンゲルにはさしたる動機もなく何となく入部した。トレーニングは参加したが、熱心ではなかった。百姓の訓練を受けていたので、山歩きの為に訓練する必要を感じなかったからである。それでも部室に行くのは楽しかった。今思うと何を話していたのか。山歩きに必要な装備とか技術とかにはとんと関心がなかった。企画にのって皆と歩いたというに過ぎない。それだけのことである。しかし、一人なら歩くこともなかったであろう山塊を経巡ったことは、後に儒学者の故地を調査旅行する際に大いに役立つことになった。もう一つは学部・学問を超えた友達に恵まれたことであろう。所謂現役時代は四年間に過ぎない。それも、小生は一度退部することを考えた。先輩の忠告をいれて留まった。結果的にそれが良かった。勝ち負けを競う部活でなかったことが幸いしたのである。

 卒業後は大学院に進み、九州大学の助手を皮切りに研究教育職を今日まで続けている。九州大学の助教授が急逝した後の後任に、教養部に在職していた先輩が赴任した。その後釜に配置換えになった。小生の教養部時代は十三年半に及ぶ。その後半に鈴木先生に請われて部長を引き継ぐことになった。OBだからこそ口出しはしないほうが良いという心構えであった。新米教師であり、研究者としては駆け出しであったので、そちらに忙殺されて熱心な部長ではなかった。赴任当初は学生処分問題で教養部が大揺れに揺れたが、部長就任の頃は落ち着いていた。父兄が乗りこんできたりしたこともあったが、大局としては平静な時代であった。ワンゲルの部活は、リーダーの役目が自然と養成される仕組みであったので、部長は殊更に気張る必要がなかったのである。と暢気なことを回顧する。

 広島大学に赴任する途次、東京でOB会が開催された。それに参加し夕刻に新幹線に乗った。同期の連中が缶ビールとつまみをくれた。新任地は試練の連続であったが、時にワンゲルの仲間を思い起しては鋭気を奮い起こしたものである。十一年在職した。少し休息した後、今の東洋大学に赴任した。

 毎年一月の新年会には皆勤である。皆に会えるのが楽しい。誰もが少しずつ年老いていくのが素敵である。ワンゲルだけではあるまいが、経済的な利益を追求する集団ではない組織に所属すると、浮世離れが出来るのが奇貨である。その意味では、卒業後の収穫が豊である。現役時代はそのための胤まきである。ワンゲルはもと渡り鳥と呼称した。こちらからあちらへ、あちらからこちらへと渡る鳥のことである。それは言い換えると、異文化体験をするということである。自らが出来る体験は些細なものだが、朋輩があれもこれも吹聴してくれる。有難いことである。それぞれが自らの命を紡ぎながら隣の人と眼差しを交わしては、共にかなしみ(慈悲・慈愛)を分ちながらも、それを露わにすることをつつしんでそっとしまい込み、静に生きていくことの有り難さを感謝する。誰に感謝するのか。そのように生きることの出来る今のわたしをこの世に誕生させて育んだ家族と、今のわたしに仕上げた昔のわたしとその朋輩達とに。明日は嵐か、それとも晴れか。今日の一日が楽しかれ。
平成20年OB会報NO39より抜粋