50年という歳月を現実に思う
7期(昭和43年卒) 金子 清敏
 式場で、ハツヨ先生にバナナでダイエットしたら如何と申しますと、ハツラツと健康的な体型に変わられている今、”残る20年何を食しようが毎日が元気ならいいのでは” と、無言で今更 ・・・・・ との笑顔がご返事でした。

 卒業以来、仙台へは何かにつけ100回以上は足を運びましたが、何か胸つかえる思いがあり、正1合の酒と板蕎麦で時空を埋めて最終列車に乗り込むことが度々でした。然し今回は、これが用のある最後の仙台になるのかと夕方の式典まで昔を思い起こして歩き始めました。

 先ず片平へ向かい、開いていた北門学食へ訪れ<ラーメン¥220、カレーライス大盛¥300>安いことにびっくり。知らない学生と50年前のことを会話し、そして心満腹にして霊屋下へ向かいました。其処には、土木部学生の住む”霊屋下下宿寮”がありましたが、昔に新規のスーパーに変わっていました。当時を振り返れば、木戸は壊れ、破れ障子で狸が住むような下宿でした。そこの住人としては5期の海老さん/瀬尾さんがおり、”どてら”で銜え煙草で焼酎を引っ掛けて麻雀しているのが普段の生活であったようです。じーとその霊屋下の河隈で当時を思い起していたら、ある歌がよぎって来ました。”民衆の酒、焼酎は- 安くて廻りが速い・・・・"<毎回コンパで彼らが、箒(又は1升瓶)をギターに見たて、ねじりはち巻きで、しわがれ声になるまで、どなって唄う姿が目に浮びます> X橋の赤線も焼酎の味も知らずして就職に上京して始めて、上野駅東口の立ち飲み屋で、10円玉4個重ねて1杯の焼酎を味わいました。仙台の生活は終わったのだと静かに杯を重ねて ・・・。

 霊屋下より次に向かったのは、伊達家三代の墓なる瑞鵬寺でした。下宿先が向山でしたので、時間がある時はその薄暗かった参道を下駄掃きで、カランコロンと音をたてて評定河原を経由して教養部へ通ったものでした。堂は見事に復元され、銭取る舎利に変わっていました。

 小学5年の春、ソフトボールの試合に親父に買ってもらった馬皮のグローブを嵌めてセンターを守らせてもらったのですが、飛んできたセンターフライを3回共全て万歳した為、交代させられました。またその夏の夕方、母親に嘘ついて親父の自転車を借り出し、踏み台に使いビワ泥棒した際、庭向こうから、やさしい気品のある叔母さんの”あぶないですよ”の嗜める声に、「見つかった、逃げにゃいかん」と、9尺の塀から下にある自転車を越そうと飛び降りようとした機敏な動作が、天は味方せず、飛び出ていた釘に背中セーターが捕まり、半ひねり不成功、そのまま下にドスンと落下。左腕間接複雑骨折。10歳の坊主の頭には、痛みより治療代を心配した。その後6ヶ月間、北千住の名医名倉病院で大人3人によるマッサージ治療を受けましたが、一旦は手の平が肩についたものの、間接に骨片が邪魔して曲らないのは当たり前で、柔らかい腕を無理して曲げた荒療治でした。通院の苦しさと医師達のひそひそ話しに、子供ながらよく耐えたものと思います。治療代に対する親への謝りがそう我慢させたのでしょう。外科手術することなく今に至っています。私の脳の”覚えるという働き”は鈍足で、人の10倍を見聞き繰り返さないと覚えない。然し、一旦覚えると記憶として長く残る。不可思議なことに4歳からの記憶は、切れ切れではあるが、その情景は未だ石に刻んだように良いことも悪いことも克明に残っています。野球場から広瀬川大橋を越して青葉城大手門に来ると、トレーナーの”ラストー”という、20人を引っ張る掛け声が脳裏にガンガン響いてきました。ひたすらに上り下りに足を働かせ、汗をかいたものでした。

 式典でお会いし顔を思い出すことができた方は、殆んど東京で知り得た方だけでしたが、思いがけない方にも会うことができました。自炊仲間であった猿人・守護さんとは40年振り。ヒョットしたら顔を出すかなと思った亡き北条真人さん、笹川博さん(酒井和歌子は親戚だから東京で紹介すると言って地下に潜ってしまった)にはやはり会えず、女子プロ”諸見里しのぶ”に似た、岩槻で苦労された今井和子さんとは10年ぶり2回目でした。

 川内時代、後輩達に飲ませるために日当800円でよくバイトし、結果仏の御園生先生より出席足らずと留年命。一方、巡検で飲んでもその後で海賊版で学する姿に、教授より修士を薦められたのも事実でした。冬の二口渓谷で頭から落ちたことも、チムニで後輩の頭上へ落石を与え病院へ撤収したことも、小松川のアパートで、色恋で大の男を泣かせたことも、かつて栗駒でのお詫びと共に思い起こします。悪いことをしたら天罰を与えよとよく言います。部活動で公的にも私的にも悪く勝手過ぎました。恐らく私は35忌日には閻魔大王より奈落の底へ行かされるでしょう。

 最近、ボランテイア活動を介して、50年振りに出会った高校の部活動2年下の後輩が、”先輩、50年経っても上下差は変わらないですね”と言いました。私の中には、共に生活した、学んだ境遇の上下世代には、歳に関係なく永遠の年代差があると思っています。今度の正月には、別の部活の先輩・後輩に50年振りに会います。そんな機会が急に増えました。

 ちゃぶ台をかこんだ「親子」は、いつになっても「親と子」であり、その差は亡くなっても消えないものです。同じ山で育つ「あすなろう」はいつまでも「あすなろう」のままです。隣の山に行けば檜に成れるでしょうが・・・。式典で全体写真撮るときの寝転んでいる現役諸君が、50年前の自身の化身であり、新人コンパで酒を飲み,唄い夜を明かした思い出が沸いてきました。新鮮な思い出に感謝いたします。

 鈴木禄弥先生という”山”は、大きく、そして動かなかったことを50周年の壮大な集まりに実感しました。皆様、健康であるハツヨ先生のこれから続く卆寿、そして白寿のお祝いの会で元気にお会い致しましょう。
平成20年OB会報NO39より抜粋