野生の着生ランを求めてヒマラヤ山地へ
3期 (昭和39年卒) 佐藤 敦
 題名は格好良いが実際は以下に述べる事情があった。

 今年で7回目のヒマラヤトレッキングは13日間のマナスル展望であった。登山ルートは登りと下りは異なるルートにしてあった。しかし、サーダーがこのトレッキングルートに慣れてない為か、下りのルートを間違えてしまい、道なき道を歩く事になってしまった。結果はランハンターの真似事が出来て、10種類のランを見つける事が出来た、それで題記のような大げさな題になった次第。

 今年のメンバーは4名、3期生の私と松木功さん、4期生の及川捷悦さん、5期生の渋川尚武さん。今まではタイ経由でネパールに入っていたが、今回はエヴェレスト展望フライトで人気を呼んでいる中国国際航空を利用、ヒマラヤ越えのフライトはこの会社の独占ルートらしい。成田から北京経由成都へ、成都からラサ経由ヒマラヤ越えフライトでカトマンズへ、ここで14人乗りの小型機に乗り換えてポカラへ。

 翌朝、サーダーがホテルへ迎えに来て、車で4時間のパレクサング村へ、この村がトレッキング開始地点となる。ここは標高700m、ここから標高差3300m歩く事になる。この村にシェルパ、コック、ポーターなどが集結していた。トレッキングの構成メンバーは、サーダー、シェルパ、コック、キッチンボーイ3名、ポーター6名、それに我々4名の総勢16名である。

 バーラ・ポカリ・マナスル展望トレッキングはエヴェレスト街道、アンナプルナ、ランタンリルンなどに比べると、トレッカーが少なく、静かな山を楽しめると宣伝されているが、全くその通りで、全行程で会ったのは一つのパーティのみであった、それも日本人2人。しかしこのルートに入るにはエヴェレスト街道などと同じく一人につきエントリーフィー2000ルピー(約2600円)を支払わなければならない。このトレッキングルートにはロッジが1軒もなく全てテントとなる。またこの地区では荷揚げ用のヤク、馬、等が調達出来ず、全てポーターに依頼せざるを得ない。

 最高地点のテント場は3800mを予定していたが、水場が涸れており断念(水場とはいえ雨水の貯まった小さい池である)。バーラ・ポカリに2日間停滞、ここから展望のよい地点まで往復する事にした。このバーラ・ポカリからの「星空とマナスル」は最高だった。ここに至るまで小さな村を何度か通過したが、トレッカーが少ないためか、村人がすれていなく、今まであちこちで子供からお金をせびられた事もあったが、このルートでは一度もなく、子供たちが野に咲く花を摘んで歓迎してくれた。過去6回のトレッキングでは経験がなかった事である。

 前述のように下山は登りとは別のルートをとったが、サーダーが下る尾根を間違えたようだ、通常テント場には遅くとも3時頃には着いていたが、この日は薄暗くなり、5時を過ぎてしまった。途中、水場のない所でテントかと心細さを感じた程だった。

 しかしルートを間違えたお陰で、ランハントが出来た、日本の山では高山植物を見つける為、当たり前だが下を向いて歩く、ヒマラヤでランを見つけるには上を向いて歩かなければならない、着生ランは頭上はるか上に咲いている、双眼鏡で探しながら歩く事もあった、首が痛くなるほどであった。我々の中の渋川ラン博士の指導の下いろいろな種類のランを見つけることが出来た、渋川博士でも正式な名前は分からず、デンドロビューム系、シンビジューム系としか判明出来なかった。

 やっと村らしきものにたどり着く、その途中いつのまにかヒルに襲われ、及川さんは靴の中が血だらけになるまで吸い付かれた、なぜか及川さん渋川さんの二人が多くヒルに吸い付かれ、私と松木さんは被害がなかった、ヒルは若い血を見分ける能力があるのか。

 彼ら二人は炭酸ガスを多く排出しているのか・・・しかしこれは蚊の話だった。村の名前をサーダーに聞いたら、「知らない」という。この名も知らない村の小学校の庭を借りてテント設営。子供達が珍しげに沢山寄ってきた。

 この夜これ叉今まで経験したことがない事件?が発生。いつもより遅い夕食を済ませ、就寝。一寝入りした頃9時頃か?突然若い女性4〜5人の声、何を話しているか全然分からないが村人の女性が珍しい来客に会いに来たようだ、この村はサーダーが知らないというほどの小さな山奥の村である、見知らぬ客は珍しいのだろう、長い間サーダー、シェルパ、コックと話し合っている・・・もめ事では無い様子は察せられた。

 私は植村直己の書いた本を思い出した、彼がヒマラヤ山地に行ったときか、或いは単独犬ぞり極地探検かは記憶にないが、名もしらぬ村に滞在すると夜な夜な村の若い女性が忍び込んで来る、これは近親交配による種の滅亡を避ける意味で医学的に重要な事で、他の種を導入する為だ・・・こんな趣旨の文だった。

 話の内容が分からないための私の妄想ではあったがシェルパ達が拒否したら、同じネパール人の種より我が日本人の種がより遠いので遺伝学的に優れているのではと更に妄想を膨らましていた。実際この妄想通りになったら、果たして可能だったか?

 今回は高山病に罹らなかったからなんとかなったか・・・彼女等は1時間ほどで帰ってしまった、やはり私の妄想だったか!翌朝サーダーに昨夜の騒ぎを聞いたら、寄付金のお願いらしかった、2000ルピー寄付させられたとの事であった。あとで考えたら、大きな声を出して忍び込むものか?あり無いことだった。

 トレッキング最後の夜はブルブレ町にテント設営、この町はマナンからのトレッカーの通り道なので通りは大混雑。16名全員でロキシー(密造酒)でお別れパーティ、ポーターの毎度の事ながら「レッサン・・ピィリーリー・・・」の合唱でトレッキング終了。

平成21年OB会報NO40より抜粋