大雪・石狩連峰合宿を偲ぶ
3期 (昭和39年卒) 小俣 勝男

 ワンゲル一年時の夏合宿の写真を、後藤君が送ってくれた。北海道の大雪・石狩連峰を歩いた時の物だ。後藤君からの写真を見て、合宿時の事が連鎖反応的に思い出された。

 昭和35年に入学した時、ワンゲルは未だ川内の同好会で、学部進学者はOB扱いだった。会の活動方針もはっきりせず、「自然に親しむ」をメインテーマに、各クループで勝手に野山を歩いている感じだった。この年の合宿を如何するかで、先輩たちの意見が分かれた。多数派だった平地派は杉田さんをリーダーに三陸海岸、山派は多田さんがリーダーで、北海道中部山岳地帯と決まった。山派の参加者は池田、渡辺、江端、大内、梅垣の諸先輩と一年生の後藤、小俣の計8人のみだった。硬派の山派だった故遠山君は、何故か三陸を歩いた。

 鈍行夜行列車と青函連絡船を乗り継ぎ、層雲峡から入山した。旭岳を盟主とする大雪山系は、当時でも開けていて登山者も多かった。しかし、中別岳以南は登山者は見掛ける事も少なく、秘境沼ノ原湿原にテントを張り、石狩岳を往復した時は、誰にも会うことはなかった。快晴の石狩岳山頂は遮るものなく、知床の羅臼岳、十勝・日高連峰が一望のもとに展開していた。生涯でこれ以上の眺望に巡り合ったことは無い。後藤君からの写真に、快晴の石狩岳山頂からの景観に、全員が見とれる一枚がある。

 自分が蕁麻疹に罹患し、治療と補給を兼ねて天人峡温泉に下山、宿泊した。仙台から天人峡にデポしていた食品は、かなりの物が腐っていた。トムラウシ直下の無人小屋に宿泊時、寒さ避けにシュラフに掛けていたテントが燃えた事がある。渡辺さんが奇声をあげて飛び起きた。発見が早かったので大事には至らなかった。悪天候が続いたり、食糧不足やらで、計画した十勝岳は諦め、20日間の合宿は終わった。最南到達地はトムラウシ山だった。ガスに煙るトムラウシ山頂の集合写真は、全員疲労が色濃く出ている。

 エッセン係は後藤君と二人で担当した。「軽く、安く、腐らず」を念頭に、食品は仙台駅近くの日の出市場で調達した。当時、安かったクジラ肉を塊で買い、スライスにして味噌漬けと塩漬けの二種類を作った。当時、ゲーキと呼んだ鯨肉一枚で飯盒飯が食べられた。缶詰は一缶35 円のサンマのかば焼きのみ。当時、青葉通りのラーメンが一杯60円の時代だから、高級品扱いだ。

 平均50キロを超すザックを担ぎ、粗末な食事で、あれだけのアルバイトによく耐えたものだ。最期の幕営地で長雨にたたられ、テント周囲の排水溝の能力が追い付かず、水につかったシュラフで一晩を過ごした。背中の下を水が流れた。低体温症にもならず、皆元気だった。若いと言うことは素晴らしいことで、70歳を過ぎた今、望むべくもない。

 卒業直前に漏電から瀬峰寮が焼失した。自分の誕生日に、山道具、写真、記録を含む一切を失ったのは、天の配剤の様に思えた。就職先の環境もあって、それ以来、山らしい山に登っていない。後藤君からの写真は、忘れかけた記憶を蘇らせてくれた。もう二度と登ることのない、大雪・石狩連峰は遥かなる山々になってしまった。自分にとって、大雪・石狩連峰山行がワンゲル活動の原点になっている。学生生活の真の起点となったのが、これ等の山々で仲間達と過ごした経験であることに間違いない。

 後藤君の写真からは、合宿のみならず、お世話になった下宿の家族の皆さんや瀬峰寮のおばさん等、自分の生活を支えてくれた、今は亡き人達との交誼が想い出され、心が熱くなった。ワンゲルでは、今に続く沢山の仲間達に恵まれた。多感な若き時代に、素晴らしい山々と、多くの人達と出会えたことは、自分にとっての大きな財産であると思っている。



 ( 編集者注 )
  後藤さんの記事を読んで、伝蔵荘日誌を読んでみた。昔のワンゲルが偲ばれる記事なので、小俣さんに依頼して会報用に短くして寄稿していただいた。伝蔵荘日誌も是非ご一読下さい。


  伝蔵荘日誌URL :
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~denzasou/m-mid-left/5-diary/121115tg.html

平成24年OB会報NO43より抜粋