7期 上田俊朗(旧姓 佐々木俊朗)さんの叙勲拝受に想うこと
7期(昭和43年卒) 金子 清敏

 謹啓 平成26年秋の叙勲に、私共7期の主将上田俊朗さんが"旭日小綬章"を受章されました。当東北大ワンダーフオーゲル部では、かつて鈴木禄弥先生が正四位に叙せられし他に国家的に表彰される方はおられなかったかと記憶しております。

 上田さんは、工学部土木学科で、来る日も毎日ひとりコツコツ黙然とコンクリートを固めては壊す破壊強度の研究に勤しみ、その結果、将来の仕事として建設関係の企業へ勤めることになりました。

 卒業する時に、私と真尾さん共々三人の男の約束として”将来28歳にして先ず結婚し、その後は成り行きで・・・” のとおりとなり、それがこの度の受章のきっかけの伏線であったかと思います。それは、北海道登別市に本社を置き、道南にて躍進されるコンクリートの二次製品の販売会社を経営する社長の宝である美人三姉妹の長女と結婚し、専務として迎えられたことに発します。

 往時の先代社長は社是を”和”とし、更に社訓の一つとして技術の導入を海外より積極的に求め、その業として道内の土木事業の活性化を専務に預け、その力量を凛々しく咲かせ始めたのでした。活動母体となる登別地域の温泉街を育て上げた先代社長の豪遊闊達にしての豪腕振りには、街の万人ものがその功名を知らないことは無かったことでした。

 その厳格なる指導者の下に専務から副社長、社長へと研鑽にまみれての26年の間経営に精励し、ご子息が成長された一昨年(H25年)より会長職として未だ会社経営に参画するも、かつての駒ヶ岳火山災害はもとより、登別市から全道に亘る産業と観光の育成に対し、全身全霊をもって社会貢献することが会社のあるべき姿であると、処々に尽力されて参りました。還暦を過ぎてからの無理から生じた病魔にも最近打ち勝ち、高倉健さんではないが二度にも亘る背中を横切る強烈なメスの跡が、その人生を物語っております。

 仕事において恒常的に学ぶという姿勢は、山を知らずしての”山行”の準備より地道に覚えたものであり、また”人を決して怒らない”その和らぎの性格は、主将としてから学び取ったのかと思います。その昔オールバックにして250cc二輪車で河内教養部へ馳せ参じた厳つい風貌から、今を誰が予想したのでしょう。恐らくそれは、母親から知らずの内に優しさを育てられたものでありましょう。企業戦士としてそれが結婚であってもその母親を一人仙台に残し海を渡っていくことは、断腸の思いは如何ばかりであったことかと思います。

 今般叙せられたことは、昭和44年に外地(北海道)に渡り社会的に貢献された成果に対して、世間がその人を人として認めるに値された”叙勲”という形で世間に称賛され、公的に発表されたものであり、私共はそれをして上田さんを公人として尊厳し、いや認めていくばかりに他ありません。

今回の叙勲綬章を最大に喜んでおられるのは、仙台の優しきご母堂かと思います。上田俊朗さんが、この度の叙勲を拝受されたことは真におめでたく、かつ立派なことであることを7期一同心より重ねてお慶びを申し上げます。

平成26年OB会報NO45より抜粋