回顧・ワンダーフォーゲル部
3期 (昭和39年卒) 小俣 勝男
記念式典参加者の集合写真 (画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大します)


 10月の半ば、東北大学ワンダーフォーゲル部創立60周年記念式典が仙台で行われた。自分は諸事情で出席出来なかったが、式典の実行委員から、参加者全員の集合写真と詳細な報告書が送られてきた。出席者は145名であり、OB数は555名の多数であった。写真の前列には10名の現役部員が座り、その後ろにOBがビッシリと並んでいた。自分の前後期にあたる先輩や後輩は、皆、後期高齢者である。出席者名簿を見ながら50余年の加齢変化を想像して姿を追い求めたが、直ぐには判別できなかった。暫く、顔を見ていると記憶にある面影が浮かんで来て、懐かしさが心に溢れ、しばし、画面から眼を逸らすことが出来なかった。自分が入部したのは昭和35年であるから、爾来58年の歳月が過ぎ去ったことになる。歳をとり、遙か昔を振り返ることはできても、当時、20歳そこそこの若者の誰が、高齢期に至った自分の姿を想像できただろう。

 自分が入学した昭和35年、東北大ワンゲルは部ではなく同好会にすぎなかった。それも設立僅か3年目であった。その年に先輩諸氏の努力により、運動部に部として昇格したが、活動方針も定かでない揺籃期のサークルであった。ワンダーフォーゲルとは渡り鳥を意味する。発祥地のドイツでは、野山を歩き、自然に親しみながら心身を鍛える運動であった。我が国では広い原野はなく、自然が多く残るのは山岳地帯であることから、山歩きが活動の主体となっていった。山岳部は険しい山に挑戦する意味合いが強いが、ワンダーフォーゲルは、山から山へと渡り歩くことが活動の主体であり、東北大ワンダーフォーゲル部でも、山々の尾根道を歩くことが多かった。幸い東北地方は、自然味豊かな連山に恵まれ、活動の場に不自由は無かった。


 部活動は4月の新入生歓迎登山で始まった。仙台北西部にそびえる泉ケ岳の山麓にテントを張り、山頂まで往復の後、夜はキャンプファイアーで新入生を盛大に歓迎した。スタンツと呼ばれる個人芸や団体芸が披露されたものだ。テント一張りは6人居住が基本だ。それぞれ、バーティーリーダーとサブリーダが選出され、パーティ行動の全てをコントロールしていた。パーティ毎のスタンツは、リーダーの腕の見せ所でもあった。5月の連休には強化訓練を主体にした合宿が行われた。当時でも、受験勉強は厳しく、難関を突破して入学した学生達の体力は、強健であるはずではなかった。放課後のランニングで基礎体力の回復に努め、強化合宿は、山歩きの体力を強化するものであった。二口峠の宮城県側に在る山形県営林署所有の無人小屋、伝蔵荘が合宿の活動拠点であった。ここから、大東岳や神室岳、蔵王連山の一角にある雁戸山等に脚を伸ばし、帰路は二口峠を越えて、仙山線山寺駅を目指すことを常とした。

 合宿は、各パーティが独自のルートから入山して、定められた集合場所を目指して歩く集中登山の形式が多くとられた。自分が3年時の合宿は、奥只見の銀山平が集合場所であった。自分のパーティは谷川岳を群馬県側から入山し、奥只見目指して尾根道を踏破した。当時、谷川岳以北に尾根道が希薄な所が多く、地形図と磁石を便りに藪漕ぎ状態で歩いた記憶がある。この合宿では、1つのバーティが福島県の至仏山山頂近くで落雷に見舞われ、1人の負傷者を出してしまった。河北新報でも、「東北大生落雷負傷」のタイトルで報道されている。それでも、負傷者を除き全員が集合地に辿り着いた。総員60名を超す人数であった。

 秋合宿は、山歩きを楽しむ意味合いが強かった。この頃になると、新入生の体力は向上しているから、活動にゆとりが出てきていた。早池峰山、焼石岳、栗駒山、岩手山、秋田駒ヶ岳等々の東北の山々が活動拠点となった。合宿以外にも、何人かがパーティを組み、好みの山々を歩く個人山行は盛んであった。


 自分たちが現役の頃、名の知れた山々では、若い登山者で溢れていた。最近の登山者は、高齢者が多いと聞いている。遭難者は、圧倒的に高齢者だ。最近の若者は山に興味が無いのだろう。昭和36年、自分が2年生の時、多くの入部者が集まった。入会金500円也を支払ってだ。当時、中華店でのラーメンが60円の時代だ。学生にとって500円は大金であった。学生コンパの費用は300円から500円、一度1,000円コンパをしてみたいとは夢の中の話だ。集めた入会金は、テント等装備品の購入資金となった。不足金は、学生ダンスパーティーを開催して集めた会費で補った。

 式典報告書に各期の部員数一覧が添付されていた。第1期13名、2期14名、3期13名、4期19名、5期は何と28名であった。6,7,8期は20名以上の部員数を誇り、その後30期頃まで10名以上の部員数が続いていた。30期生は、昭和62年度の入学である。この頃までは、山歩きに興味を持つ若者が多かったのだろう。その後、部員数漸次減少傾向が続き、平成5年以降は更に減り続け、一学年1人か2人、時には0が続いていた。全学年で部員数3人から4人では、部消滅寸前である。最後に記載されていた、現役1年の61期生が6人とは頼もしい限りである。

 組織の継続とは、人から人への繋がりである。人が途絶えれば組織は消滅の運命だ。自分やTG君の3期は、40名近い新入生が入部した。卒業時に残ったのは13人に過ぎない。内4人は鬼籍の人だ。「野に山にワンゲルへ、自然に親しむワンゲルへ」の誘い文句で入部しても、求める物には個人差がある。入部前のイメージが、実際の活動内容と異なれば、組織から去ることになる。30s、40sのザックを背負い、急な山道を黙々と歩く行為は楽では無い。遙か先に広がる山並みを心に描きながら、ただ脚を運び続けるだけだ。心から山が好きでなければ続けられない事だ。当時は、列車やバス等の交通機関を降りてから登山口まで1日近くをかけて歩いたものだ。これは、山道を歩くウオーミングアップに最適であった。これらのアルバイトに耐えられない者も退部していった。


 山でのパーティは一種の運命共同体である。同じ飯盒の飯を食べ、同じテントでシュラフに包まって眠り、動けなくなった仲間の荷物を担ぎ、怪我をした仲間を背負い里まで下ろすこともある。夏合宿は通常2週間程度の団体行動となる。山での生活では、メンバー全員が事前に決められた役割分担により維持され、チームワークとリーダーの采配が全てを決するのが合宿であった。これらの行為を年何回も繰り返すことは、仲間相互の関係を深めも事に繋がる。厳しい環境で寝食を繰り返せば、虚飾は剥がれ、それぞれ地の人間性が現れる事になる。山行で肝胆相照らし、親しくなった仲間同士の関係は、卒業後も継続することになる。現役当時は意識することは無いが、高齢期を迎えた時、当時を出発点とする繋がりは、お互いにとって生涯の財産に転ずる。

 創立60周年記念式典に参列した仲間や、参加できなかった仲間達を含め、各期、各期を繋ぐ仲間意識は、60年にわたる連帯の鎖で繋がっている様に思える。東北大学ワンダーフォーゲル部が続く限り、連帯の輪は更に大きくなっていくことだろう。人は誰でも一人では生きられない。学生時代、利害関係抜きに結びついた仲間同士の関係は貴重である。歳をとっても、短い言葉の遣り取りだけで、お互いに真意をくみ取れる関係は、ワンゲル同期の中でしか成立しない。

 送られてきた集合写真に見る同時代を生きた仲間達の姿は、傍目には老人にしか見えない。50年以上昔、同じテントで寝食を共にし、キャンプファイアーを囲み、学生歌「青葉萌ゆる このみちのく---」や、「そんなにおまえは なぜなげく---」と、部歌「放浪の歌」を共に歌った仲間達であることを想うと、年齢を超越して、当時の姿が蘇るから不思議である。一通のメールに添付された写真と報告書は、一番輝いていた時代の自分を、思い出す機会を与えてくれた。感謝あるのみだ。

平成30年OB会報NO49より抜粋