現役時代からの夢 ヒマラヤの先達の足跡 |
4期 (昭和40年卒) 小原 佑一 |
ワンゲル創部60周年記念式典も盛会裏に終わり、反省会の連絡が来ました。実は反省会当日は既に予定してあった念願のヒマラヤ行きと重なってしまい、どっちを取るかといわれれば「山でしょう!」ということで、反省会は失礼して「現役時代からの夢 ヒマラヤの先達の足跡」に行ってきた。現役時代から気になっていた中央アジアの探検。古くは玄奘三蔵、マルコポーロに始まる西域、S.ヘディン、A.スタイン、大谷探検隊などの探検記を読んで行ってみたくなった彷徨える湖「ロプノール」や楼蘭へ少しでも近づこうと、リタイヤしてからタクラマカン砂漠や米蘭、敦煌から北西のヤルダン国家地質公園の魔鬼城など訪れていた。 20世紀の初め、厳しい鎖国だったチベットに仏教の原典を求めてインド、ネパールから潜入した河口慧海師がチベットに抜ける間道を探っていた昔の塩の交易ルート、アンナプルナ山塊のダウラギリ(8167m)とニルギリ(6940m)に挟まれたカリ・ガンダキ川沿いのジョムソン街道に行ってきた。 ポカラからYeti Airlines(雪男航空?)の小型飛行機で、アンナプルナを間近に見ながらジョムソン空港へ飛んだ。 河口慧海師も訪れたという、ヒンズー教と仏教の聖地と言うムクティナート(海抜3798m)に行った。空港から四輪駆動車で集落の入り口まで行き、そこからたった100mの登りだが高度順化なくいきなりなので、結構しんどい。でも、寺院からの谷を挟んでみるダウラギリの姿は大きくて輝いている。カリ・ガンダキ川の河原へ降りてみると、河口慧海師が登って行ったのではないかと思われる対岸の谷が見える(写真1)。 |
(写真1) |
翌朝、寒い中ジーッと我慢して見ていると頂から徐々に淡紅さを増していくダウラギリの姿は圧巻でした(写真2)。 |
(写真2) |
このすばらしい景色を見ながら、ロッジで作ってもらった弁当をのんびり食べた。少し上の方へ登って行くと、高い樹は少なくなり、潅木の間に放牧されたヤクがあちらこちらでノウノウと草を食んでいる。高原の散歩気分を十分味わって別の道を河原まで下る。 |
(写真3) |
街道の石畳みに沿った二階家の二階部分の二部屋、控の間で寝起きし、隣接する仏間にぎっしりと保管されているチベット語の経典を毎日読み続け、午後は食事を一切取らず、就寝前には座禅という生活。窓から見える近所の草花やカリ・ガンダケ川、そしてその先にそびえる白いニルギリの峰々を眺めては心を休めていたようである。 今まで慧海師の「チベット旅行記」などでは、越境ルートや関わった人たちを隠すため詳しいことが書かれておらず、謎とされていた国境越えの部分に関する慧海師の日記が2004年に公表された。解説を交えた文庫本(河口慧海 奥山直司編「河口慧海日記」講談社学術文庫)が出版された。ルートなどもほぼ解明されたので、この旅行の前に予習をすることができた。しかし、最新のGoogle Map/Earthでルートを確認しようとしても集落名も地名の記載のほとんどない、丸っきりの空白地帯であった。 帰国後、「河口慧海の足跡をたどって かつての王国ムスタンとドルポ」という雲南懇話会(中国の雲南・チベット地域に興味・関心を持つ人達の集まり)で行なわれた稲葉香氏の現地調査/踏破の講演資料をインターネットで見つけた。 今回の旅行で役に立ったスマホのアプリは |
平成30年OB会報NO49より抜粋 |