(故)川田実君との山行
8期 (昭和44年卒) 前田 吉彦

 山を歩いていると、昨春亡くなった川田君を思い出すことがある。特に一人でとぼとぼ歩いている時に。彼とは随分一緒に山に行ったものだ。彼が一年生の時の吾妻山秋合宿、二年生になってからは旧錬、残雪の鳥海山、夏合宿(南アルプス白根山脈縦走)、最後は秋の飯豊に二人で行った。数年前までは8・9期OB山行に参加してくれていた。

 体力があり、中々弱音を吐かないタフガイ、そんな印象が強かったが、数年前のOB山行で酔った勢いか「前田にしごかれた」と冗談半分で言うようになった。聞いてみると、「石野君と3人で行った鳥海山の時に初めてバテタ」と。確かに鳥海山の登りは長かった。朝6時吹浦の海岸を出発し、車道を延々と歩き、標高約1,100mの登山口からは雪上をひたすら登って、ようやく山頂に着いたのは夕方6時。一日の標高差2,236m。私にとっても一日の登り最高記録。確かに疲れたけれど、大きな充実感を味わった一日であった。

 夏合宿ではエッセンを担当、いつも暖かい汁物を作り、とにかく皆の腹を一杯に満たしてくれた。口数は多くはないが、ムードメーカー。踏み跡が判然としない、ルート情報がほとんどなかった白根山脈の縦走でも、彼がいるだけでパーティーの雰囲気は、何となく明るくなった。

鳥海山にて
北岳にて
飯豊 ( 先を行く川田君 )

 卒業後大手土建会社に入り、三重県で勤務していたが退職、一念発起して、青森県十和田市に広大な農園を購入し、小松菜の専業農家になった。

「最近元気がない」という奥さんの知らせで、数年前彼の農園を訪問したことがある。原生林に囲まれた農園開墾時期は、自ら重機を操って行い、10棟ほど建てたビニールハウスは大型農機具が自由に動き回れるように自ら設計・製作したと。更に敷地内で温泉が湧き出したので、その熱を利用することで、普通は年間8〜9回の小松菜収穫を、11回程度まで増やしていると説明してくれた。小さな小松菜の種を、一粒づつ均一に蒔くのは至難の業である。種蒔き農具を発明したなど成功した転業農家として、地元新聞にも大きく取り上がられたと誇らしげに語ってくれた。

彼が亡くなった後も、奥さんはじめ3人の子供家族が川田農園を引き継ぎ、幸せに暮らしている。川田一代で農園を始め、育てたのだ。立派なことだと思う。もう会うことは出来ないけれど、これからも一人で山に登ったら、若かりし頃の川田君、農園を起こした川田君を思い出すだろう。

( 令和元年 6月 3日 赤城山にて )
令和元年OB会報NO50より抜粋