ヨーロッパ・スケッチの旅
& スケッチの山旅
8期 (昭和44年卒) 佐藤 拓哉
( 2006〜2008 年に「圧力技術(HPI)」に連載 )
 

    サグラダ・ファミリア にて
    ( バルセロナ・スペイン )


      2013年 10月 24日
             


 私は淡彩画、特に風景をサッと描いたスケッチが好きである。有名な絵画はほとんど油絵であり、それはそれで素晴らしいし、好きな油絵も多い。しかし、淡彩スケッチには、それとはまったく異なる魅力を感じる。

 なぜなのだろう。目の前にした風景への感動を、その場で素直に描き写すことができることは大きな魅力であり、油絵と異なり、描き直しができないということに、心地よい緊張感を感じる。

 スケッチは、油絵の大作を描くためのものとして扱われる場合が多いが、私はスケッチそのものにも大きな魅力を感じる。何より、旅先でも気軽に描くことができるところがよい。

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A collection of Sketches and Essays
第一部 ヨーロッパ・スケッチの旅
ルーアン(フランス)

 ルーアン ・・・・ セーヌ川のほとりに発展したノルマンディー地方の中心都市の名前を知ったのは、モネの連作「ルーアン大聖堂」によってである。

 仕事でパリに出張した時の日曜日、モネに魅かれてルーアンへ、できれば多くの画家が好んで描いた港町、ル・アーヴルやオンフルールまで足を伸ばそうと、ふらりと一人旅に出た。

 ルーアン行きの特急は、パリのサン・ラザール駅から出る。思えば、モウモウと煙と蒸気をはきながら出入りする機関車を描いたモネの絵もサン・ラザール駅であり、このちょっとした旅行がさらに好ましいものに思えた。もちろん、今は蒸気機関車を見ることができないが、駅舎は昔の面影を残している。

 北フランスの田園風景の中を走ること約1時間、落ち着いた趣のルーアン駅に降り立った。とにかく大聖堂に行こうと駅前の地図を見て、この教会がノートル・ダム大聖堂という名前であることを初めて知った。

 中世のままの狭い路地を抜けた広場に、大聖堂の尖塔(フランスで一番高い)が聳えていた。12世紀に工事が始まり、16世紀に完成した、ゴシック様式の美しい教会である。

 広場の片隅のベンチに座ってスケッチしていると、老人が隣に座って話しかけてきた。もちろんフランス語であり、何を言っているのか分からない。しばらくトンチンカンな会話をした後、お菓子をくれて去っていった。

 16世紀に作られたルネッサンス様式の大時計が、大聖堂に通じる古い路地で、今も時を刻んでいる。人通りの多いところなので、カフェの店先でコーヒーを飲みながらスケッチした。歩いている人を描き込んだところ、その婦人二人が覗き込んで、「私たちだ!」と喜んでいた。こんな触れ合いも、写真にはない楽しみである。

 ルーアンは、ジャンヌ・ダルクが火刑にあったところであり、その広場にはジャンヌ・ダルク教会が建っている。この教会は、フランスらしい洒落た現代風の建物であるが、なぜか昔ながらの古い教会の方が好ましく思えた。

1999年 4月 ルーアン大聖堂(サインペン、水彩)
1999年 4月 ルーアン大時計(サインペン、水彩)
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パリ(フランス)

 パリの街並みや、随所に点在する建物の素晴らしさは、今更言うまでもない。どこでも絵になる街、それがパリである。

 芸術の都だけあり、画家の卵が溢れ、いたるところで絵を売っている。そんなパリでスケッチするのは勇気がいることである・・・・と思うのは独りよがりなことであり、あまりにも日常的なことのためか、実は誰も覗いたりしない。

 パリはどこでも絵になるとは言いながら、やはりセーヌ川越しに見るノートル・ダム寺院を描かないわけにはいかない。スケッチしているすぐ近くでは、もっと上手い絵がいっぱい売られているが、自分で描いたものには、やはり愛着がある。

 最後のスケッチは、仕事が終わってバスを待つ間のちょっとした時間に描いたものである。この時は、仕事の関係で、アパートの地下室や、ルパンも逃走に使ったという下水道に入ったが、表の華やかさとは違ったパリの一面を垣間見た思いがした。

1999年 4月 パリのノートル・ダム寺院(サインペン、水彩)
1999年 4月 パリの街角(サインペン)
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ウィーン(オーストリア)

 音楽の都、ウィーンを訪れたのは、圧力容器の国際会議が開かれた2003 年の夏であった。ウィーンフィルの演奏会を聴くことは叶わなかったが、連日、オペラハウスや、ホーフブルク王宮そしてシェーンブルン宮殿でモーツアルトやヨハン・シュトラウスの音楽を楽しむことができた。

 中世からドナウ河沿いの交易地であったウィーンは、1155年にハーベンベルク家がオーストリアの首都にしてから大きくなり始め、1278年にハプスブルク家の帝都となり、さらに発展した。

 数々の結婚政策の成功により、16世紀には神聖ローマ帝国として、ヨーロッパ最大の帝国となった。「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉どおり、ハプスブルク家は、結婚によって勢力を拡大していった。18世紀の有名な女帝マリア・テレジアは、実に16人もの子供をもうけた。ルイ16世と結婚し、フランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネットは、その末娘である。

 18世紀から19世紀にかけて、ウィーン文化が絶頂期を迎えた。それは、ハプスブルク帝国は多民族国家であり、帝国各地からあらゆる民族の才能がウィーンに集まったためであろう。

 この華やかな帝国も、1914年、サラエボの一発の銃弾が引き金となって、650年の歴史を閉じることになった。

 下のスケッチは、美術史博物館を背景にしたマリア・テレジアの像である。帝国を支える女帝として、16人の子供の母として生きた誇りを感じさせる、凛とした像であった。

 次のシュテファン寺院は、12世紀に建設が始まり、14世紀半ばにゴシック様式に立て替えられた。スケッチにある高さ137mの南塔は、1433年に完成した。寺院は街の中心地にあり、多くの観光客で賑わっていた。

2003年 7月 マリア・テレジアと美術史博物館 (サインペン、水彩)
2003年 7月 シュテファン寺院(サインペン、水彩)


 最後のシェーンブルン宮殿は、17世紀に建てられたハプスブルク家の夏の離宮である。マリア・テレジアなどが暮らした豪華な部屋の数々と比べ、外観は案外質素なものであった。観光客も少なくなった夕方、庭の片隅に腰掛けてスケッチを描いていると、一人の若者が覗き込み、「この絵は売るのか?」と聞いてきた。いくらだったら買ってくれたのだろうか。

2003年 7月 シェーン・ブルン宮殿(サインペン・水彩)
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ケルン(ドイツ)

 列車がケルンに近づいたら、あまり窓の外を見ない方がよい。その方が、駅を出てすぐ、頭上に聳えるケルン大聖堂の圧倒的迫力に感動するように思える。

 高さ157mの塔を二つ持つ、現存の3代目のケルン大聖堂は、1248年に建設が始まり、完成までに約630年かかったという(16〜19世紀に中断)。第二次世界大戦で、14回の空爆を受けて焼け野原となったケルンになお聳えている写真は、宗教の持つ力を感じさせるものであった。

 ゴシック様式のこの教会は全体的に黒ずんでおり、一種独特の雰囲気を持っているが、これも長い間の環境の影響によるもので、補修が終わった部分はきれいなクリーム色をしていた。今世紀のうちに、全体がきれいな色に生まれ変わるのであろうか。

 8年前、仕事の関係でケルン郊外に2週間滞在した。小さな無人駅があるだけの寂しい町であり、毎晩のように、列車に乗ってケルンまで食事しに出かけた。このスケッチは、教会を斜め後から描いたものである。とにかく大きく、広場の端からでも、見上げているうちに首が痛くなってくる。

 ケルンは、ライン川沿いの文化の中心地である。ケルンは、コローニアとも呼ばれており、名前からも分かるように、ローマ帝国時代からの街である。今はその面影はほとんどないが、街の中心の広場に、小さな遺跡が残っている。

 両岸にぶどう畑が広がり、丘の上には数多くの古城が続く景色を眺めながらのライン下りは、ゆったりとした気持にさせてくれる。ただし、あの有名なローレライは、歌が流れてこなければ見過ごしてしまいそうな景色であり、あまり期待しない方がよい。最後のスケッチは、ライン河畔の静かなレストランのベランダから描いたものである。多くのバージが行き交い、ライン川が今でも産業の動脈であることには変わりない。

1999年 5月 ケルン大聖堂(サインペン・水彩)
1999年 5月 ラインの流れ(サインペン・水彩)
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トレド(スペイン)

 中世に迷い込んでしまったような錯覚さえ覚える街 ・・・・ トレド(世界遺産)を、3週間のスペインスケッチ旅行の最初の場所に選んだ。タホ川に囲まれた小高い丘の、城壁に囲まれたこの街は、スペインの歴史そのものと言える。1561年に首都がマドリードに移されるまでは、多くの支配者が統治するスペインの中心都市であった。

 トレドの歴史は、紀元前190年頃、ローマに征服された時まで遡る。約600年のローマ支配の間に、道路や橋が整備され、キリスト教が普及した。8世紀に入ると、イスラム教徒によって支配権を奪われるが、当時はイスラム教、ユダヤ教、キリスト教が共存していた。そのため、イスラム教徒の農耕、灌漑、建築、工芸、ユダヤ教徒の科学、医学、金融、キリスト教徒の軍事力などが融合し、豊かな文化が築かれた。中世に入ると、キリスト教徒が力を盛り返し、再び支配権を奪還した。

 トレドには、カテドラル(大聖堂)を始めとして、エル・グレコの絵画で有名なサント・トメ教会など、数多くの教会が建てられている。カテドラルと並んで聳えているアルカサル(宮殿)は、19世紀から20世紀には、有名な軍学校として使われた。しかし、私にとって最も印象的なのは、迷路のような、狭い路地そのものであった。下の1枚は、どこからともなく聞こえてくる「・・・・サンタ・マーリア・・・・」という祈りの中で、道端に座って描いたものである。

 トレドでは、タホ川を挟んだ丘にあるパラドールにぜひ泊って欲しい。ここから眺めるトレドは、遠い昔を眺めているような気分にさせてくれる。

2001年 9月 トレドの路地(サインペン、水彩)
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セビリア(スペイン)

 スペイン第4の都市セビリア(セビーリャ)は、アンダルシア地方の中心都市であり、闘牛とフラメンコの本場である。「カルメン」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「セビリアの理髪師」など、セビリアを舞台とした歌劇も多い。

 セビリアの歴史も古く、古代ローマ時代まで遡る。紀元前8〜9世紀にはフェニキア人やカルタゴ人に支配され、8世紀に入るとイスラム教勢力が強くなり、その支配は13 世紀まで続いた。ローマのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇るカテドラル(世界遺産)にある有名な「ヒラルダの塔」は、その当時のモスクのミナレット(祈祷の塔)を鐘楼として残したものであり、イスラム文化の名残を今に伝えている。

 セビリアが有名になったのは、コロンブスが新大陸を発見してからである。アメリカとの交易により港湾都市として繁栄し、16〜17世紀には、スペインで最も人口の多い都市となった。

 スペインと言えばやはり「闘牛」ということで、カルメンの舞台となったマエストランサ闘牛場に行った。血を流しながら死んでいく牛がかわいそうと思いながらも、マタドールの見事な剣さばきで一瞬にして倒れた時の歓声には、心ならずも引き込まれてしまった。

2001年 9月 タイル模様が美しいセビリアのスペイン広場(サインペン、水彩)
2001年 9月 セビリアのカテドラル ヒラルダの塔(サインペン、水彩)
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コルドバ(スペイン)

 セビリアの北東120kmにあるコルドバは、古代ローマの支配に始まり、8世紀の北アフリカのイスラム教徒の侵入、そして13 世紀のキリスト教徒の奪還という歴史を最も色濃く残している。

 グアタルキビール川沿いに建つメスキータ(世界遺産)に初めて入った人は、その異様な光景に驚くであろう。まず目に入るのが、「円柱の森」と呼ばれる、レンガの赤と石灰石の白の組合せが美しいイスラム様式のアーチ群である。そこを通り抜けると、今度は荘厳なキリスト教の礼拝堂が目に飛び込んでくる。

 「メスキータ」は「モスク」という意味であり、もともとキリスト教会があったところに建てたモスクの中心部に、今度はキリスト教徒が礼拝堂を据えたという、世界でも稀な歴史的建造物である

2001年 9月 メスキータのオレンジの中庭から見たアルミナル塔(ミナレット)(サインペン)
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マラガ/ロンダとカサレス(スペイン)

 紺碧の海を左に眺めながら、ヨーロッパ有数のリゾート地、コスタ・デル・ソルの海岸を西に向かう。車の窓を開けると、地中海のさわやかな風が吹き込んでくる。今日は、ピカソの出身地としても有名なマラガでレンタカーを借り、アンダルシア地方の魅力ある町を訪ね歩くことにした。

 海岸と別れ、くねくねした山道をしばらく走っていくと、緩やかな台地の上にロンダの町が忽然と現れた。ロンダの魅力は、グアダレビアン川によって侵食されたタホ谷の美しさである。峡谷に架かるヌエボ橋から下を覗くと、目がくらみそうになる。下のスケッチは、崖につけられた小道を谷底近くまで下りて、ヌエボ橋を見上げたものである。ドイツから来たという観光客が覗き込み、「ジャパニーズゴッホ」と声を掛けてくれたのが嬉しかった。

2001年 9月 ロンダ・ヌエボ橋(サインペン、水彩)


 スペインにいくつかある「白い村」と呼ばれる魅力的な村のうち、カサレスとミハスを訪れた。カサレスは、海岸から14Km内陸に入った山の斜面に密集した小さな村である。村を一望できる高台の小さなレストランのテラスで、この地方の名物である兎料理を食べながら、さっそくスケッチした。密集した小さな家の白い壁と赤い屋根のコントラストは、まるでメルヘンの世界のようであった。ここでは、イギリスから来たという夫婦と話が弾んだ。スケッチ1枚で、いろいろな国の人と話ができるところが、写真とは違ったスケッチの面白いところである。

 人口わずか3000人ほどのこの村の起源は遠くローマ時代まで遡り、村の名前もシーザー(カエサル)から来ているというのもおもしろい。晴れた日には、地中海やジブラルタル海峡の向こうにモロッコが見えるという雄大な景色に引かれ、多くの外国人も住んでいるという。

 マラガに帰る途中に寄ったミハスも魅力的な村であった。ここで飲んだスープ・ド・ポアゾンの味は今でも忘れることができない。

 今回の旅では、マラガでゆっくりすることができなかったが、スペイン第6の都市マラガもその歴史は古く、ローマ劇場跡、アラブの砦、カテドラルなど、スペインらしい趣の街である。

2001年 9月 白い村・カサレス(サインペン、水彩)
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グラナダ(スペイン)

 グラナダは最もスペインらしい街である。街を見下ろす丘一帯が宮殿となっており、あまりにも有名なアルハンブラ宮殿を初めとして、9世紀に建てられた宮殿・アルカサバの遺跡、カルロス5世宮殿、夏の離宮・ヘネラリフェ、パラドール・サンフランシスコなど、イスラム文化を今に伝える歴史的建造物が並んでいる。また、谷を挟んだ丘には、アルハンブラ宮殿とともに世界遺産になっている古いイスラムの街・アルバイシン地区があり、昔さながらの白い壁の家と狭い路地が残っている。その一角にある狭い劇場で観たフラメンコも、忘れられない思い出の一つである。フラメンコと言えば女性の踊りという印象が強いが、むしろ男性の激しい動きの踊りが魅力的であった。

 グラナダの歴史も、他の都市と同様に古い。しかし、他の都市は、13世紀にキリスト教徒がイスラム教徒から奪還したのに対し、グラナダはイスラムの支配が15 世紀まで続いた。そのため、この地にイスラム文化が色濃く残ったのであろう。

 アルハンブラ宮殿は、スペインのイスラム文化を代表する建物である。イスラムの建物に共通した特徴であるが、外観は質素であり、とても宮殿には見えない。しかし、一歩中に入ると、決め細やかなタイルで覆われた壁や天井の美しさに目を奪われる。また、ライオンのパティオやアラヤネスのパティオなど、イスラム文化の魅力が溢れている。特に、漏れてくる淡い光に輝くアベンヘラヘスの間のドーム状の天井は、この世のものとは思えない幻想的な美しさである。

 アルハンブラ宮殿が建てられたのが、スペイン各地でキリスト教徒が国土奪還を果たした13 世紀であるということは興味深い。長い間のイスラム教徒の支配も、このアルハンブラ宮殿のコマレスの塔にある大使の間で終止符が打たれたとされている。

 今回のスペイン旅行のハイライトの一つが、パラドール・サンフランスシスコでの宿泊である。これは古い修道院を改造した国営ホテルであり、数あるパラドールの中で最も人気があり、料金も他の2〜3倍と高い。内部の装飾はイスラムのアラベスク模様であり、彫刻の屏風や絵画などの美術が無造作に飾られている。シエラ・ネバダ山脈の雪解け水が流れ、水の宮殿とも呼ばれているヘネラリフェが、ホテルのテラスから一望できる。ホテルの庭園も素晴らしいが、やはりパティオが一番落ち着く。わずかに流れる噴水の水音が、静寂さを増してくれる。

2001年 9月 パラドール・サンフランシスコのパティオ(サインペン、水彩)
2001年 9月 パラドールからヘネラリフェ(サインペン、水彩)
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バルセロナ(スペイン)

 バルセロナは、スペインで最も人気のある都市であろう。その人気のもとは、街中に数多くある世界遺産にもなっているガウディの建築物にあるのかもしれない。サグラダ・ファミリア教会はその象徴的な建築物である。建設を始めてから100年経った現在でも、できているのは周囲ばかりであり、本堂は未だに着工さえされていない。「今これを見ている人は誰一人として完成した教会をみることができないだろうな」と思いながら、観光客で賑わう道路脇に座り込んで描いた1枚が、下のスケッチである。

2001年 9月 サグラダ・ファミリア(サインペン、水彩)


 ガウディが好きかどうかは人によって大きく分かれるところであるが、私にはやはり昔ながらのカテドラルの方が好ましく思える。カタルーニャ・ゴシック様式のこの大聖堂は、ドイツやフランスのゴシック建築ほど威圧感は感じられないが、建物の内外とも荘厳さに満ち溢れている。この1枚も、道路の反対側に座って、道行く人の間から覗き込みながら描いたものである。

2001年 9月 カテドラル(サインペン)


 スペイン第2の都市、バルセロナの歴史は、遠くカルタゴや古代ローマ時代まで遡る。その後も他民族の侵略を受け続けてきたが、9世紀初頭からバルセロナの真の歴史が始まり、やがてアテネに至る地中海沿岸を支配するまでになった。しかし、15世紀に政治の中心がマドリードへ移り、バルセロナは次第に衰退していき、復興は18世紀まで待たなければならなかった。20世紀に入り、人口が飛躍的に増加するとともに、無政府主義者、共産主義者などが増え、政治的に不安定になり、スペイン内戦へとつながっていった。

 旅行の最後の日、バルセロナオリンピックの会場になったモンジュイックの丘を歩いてみた。ここは、マラソンの森下や有森が銀メダルを取ったところである。緑多きこの丘をスペイン広場の方に下っていくと、古い教会の天井画を保存している、世界的にもユニークなカタルーニャ美術館があった。あまりにも立派な建物であったので、石段に座って昼食を食べながらスケッチしてみた。

2001年 9月 カタルーニャ美術館(サインペン)
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タラゴナ(スペイン)

 紺碧の海に夏の太陽がキラキラと輝いている。海を見下ろしながら「地中海のバルコニー」と呼ばれる遊歩道をしばらく歩くと、古代ローマの円形劇場があり、その隣に12世紀に建てられた教会が廃墟となって残っている。散策しているだけで、次々と歴史的建造物が現れるのが、ヨーロッパの古い都市の魅力である。

 城郭都市であるタラゴナには古代遺跡が多く、「タラゴナの考古遺跡群」として世界遺産となっている。その中の一つ、ラス・ファレス水道橋(別名「悪魔の橋」)に行こうとしたが、どのバスに乗るのかさっぱり分からない。地元のおばさんと英語とスペイン語の怪しげな会話を繰り返し、半信半疑のまま同じバスに乗ったところ、彼女は運転手になにやら話して途中で降りてしまった。しばらく走ってから、運転手が「ここで降りろ」と合図するので降りたところ、まわりは何もない。地形から見てこっちだろうと松林の中を歩いていくと、水道橋が目の前に忽然と現れた。世界遺産にまでなっているのに、施設はおろか、まともな案内もなく、当然のように誰もいない。遺跡も素晴らしいが、それを観光地化しないタラゴナの人もまた素晴らしい。ここはバス停の標識もないところであり、街に戻る時にも一波乱あったが、これもまた旅の楽しさではある。

 正面から見たタラゴナのカテドラルは、荘厳さはなく、庶民的な感じであった。しかし、中に入るとさすがに歴史の重さを感じさせる重厚なものであり、中庭から見た建物は繊細で美しいものであった。

2001年 9月 ラス・ファレラス水道橋(サインペン、水彩)
2001年 9月 タラゴナのカテドラル(サインペン)
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シャモニー(フランス)

 街の中心にある小さなホテルの前庭からは、正面にモンブランがきれいに見える。シャモニーに滞在した9日間、朝陽や夕陽で刻々と色の変わるモンブランを眺めることができた。

 去年の夏、長い間の憧れであったアルプスでのロッククライミングのために、二人でシャモニーを訪れた。前日まで1週間雨が降り続いたという話が嘘のように晴れ渡り、6日間連続でクライミングを楽しむことができた。シャモニーの谷を挟んで、南にミディ針峰群、北に赤い針峰群が並んでおり、どこを登るか決めるのに困るほどである。ハイライトは、エギュー・ド・ミディの紅く美しい南壁のレビュファルート登攀であった。名前から分かるとおり、伝説の名クライマーであるガストン・レビュファが開いたルートである。モンブランやグランドジョラスを眺めながらの、標高3800mでのクライミングは感動の連続であった。

2007年 8月 シャモニーのホテルのテラスからモンブラン(サインペン、水彩)
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プロバンス(フランス)

 シャモニーから急行でローヌ川に沿ってリヨンまで下り、そこでTGV に乗り換え、「アヴィニヨンの橋の上で」の歌で有名なアヴィニヨンに行った。抜けるような青空と乾いた強い風が出迎えてくれた。

 プロバンスの歴史はギリシャ時代までさかのぼり、特にローマ時代には大いに繁栄し、遺跡も多い。アヴィニヨンは、14 世紀、ローマから移った法王のために建てられた宮殿兼城塞の法王庁を中心とした城郭都市であり、古い建物の間を細い路地が迷路のように走っている。アヴィニヨンの橋(サン・ベネゼ橋)は、ローヌ川にかかる22 のアーチで支えられた全長900mの橋であったが、17世紀の大洪水で18 のアーチが流され、現在は川の途中で切れたままになっている。

 アヴィニヨンで車を借り、ローヌ川に沿って地中海までドライブした。その途中、世界遺産にもなっているアルルの円形闘技場に立ち寄り、古い建物の玄関先に座って、スケッチを1枚描いた。

2007年 9月 アルルの円形闘技場(サインペン、水彩)

 翌日は車を西に走らせ、これも世界遺産になっているポン・デュ・ガールの水道橋に向かった。20年前に訪れた時は、周りに何もなく、誰もいない寂しい所であったが、今は立派な記念館があり、多くの観光客で賑わっていた。昔は、橋の上を自由に歩くことができたが、今回は下からただ眺めるだけであった。

2007年 9月 ポン・デュ・ガールの水道橋(サインペン、水彩)
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コート・ダジュール(フランス)

 スペインのスケッチ旅行の帰りの飛行機からコート・ダジュールの美しい海岸線を見た時、次はここに来ることが決まった。

 カンヌ、ニース、モナコなどが並ぶこの一帯は、世界の富豪が集まるところというイメージが強かったが、実際に行ってみると、朝市など他のヨーロッパの町と同じような庶民の生活もあり、結構我々のような庶民にとっても居心地がよいところである。丘の上から眺めおろす紺碧の地中海、夕焼けに染まるニースの海岸など、まさに一級品の眺めである。

 スケッチは、ニースの近くにある鷲の村の一つである「エズ」からの展望である。敵からの襲撃に備えて、丘の上に作られた村自体が要塞となっており、古い建物と狭く入り組んだ石畳の坂道が、中世の姿のまま残っている。景色の雄大さだけではなく、ブティックやアートギャラリー、レストランなど、小さいが洒落た店が並んでいるのも人気の一つとなっている。

 コート・ダジュルールでは、のんびりすることが何よりである。ニースはそんな街である。

2007年 9月 エズからの展望(サインペン、水彩)
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マルセーユ(フランス)

 かつて、ヨーロッパに渡った日本人の多くが、この港町マルセーユから上陸した。その古い港街を丘の上から見下ろすように建っているのが、ノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院である。鐘楼の上の黄金のマリア像が、航海に出る船乗りたちを見守ってきた。

 フランス旅行の最後の晩は、旧港に面したレストランの店先で、ブイヤベースを味わった。

2007年 9月 マルセーユの寺院(サインペン)
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ドロミテ(イタリア)

 「すご〜い!」 ドロミテ山群の中心に位置するセルバ・ガルデナという小さな村に着いた時、最初に出た言葉である。村のすぐ背後には岩壁が圧倒的迫力で迫っており、草木のない灰色がかった垂直の壁は近づくのさえ恐ろしく感じられた。これまでに見た他のヨーロッパアルプスとはまったく異なる景観に圧倒された。

 ドロミテとは、オーストリアに接する北イタリアの広い山域の総称である。アルプスとしては標高が高くないが、草原の上に聳える白い垂直の岩壁やするどい岩塔など、石灰岩特有の景観は、「世界で最も美しい山」と言えよう。この山域には多くの峠があり、どの峠も草原に覆われた気持ちのよいところであった。

 セルバは、日本ではほとんど知られていないが、非常に美しい村であり、立ち並ぶ山小屋風のホテルや一般の家は、みんな新築の建物のようにきれいであった。ホテルの裏庭で描いた1枚は、ドロミテとしては珍しい赤い岩壁のスケッチである。この美しい山域に約1週間滞在し、ロッククライミングをできたことは、一生の思い出となった。

2008年 9月 セルバ・ガルデナのホテルからの眺め(水彩、サインペン)
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ヴェネチア(イタリア)

 ドロミテのコルチナ・ダンペツォからバスと列車を乗り継いで、サンタ・ルチア駅に降り立つと、明るい太陽にキラキラ輝いている大運河が待っていた。「水の都」ヴェネチアは、世界中から観光客が集まる、最も人気のある観光都市となっている。

 ヴェネチアは、干潟に大量の丸太の杭を打ち込んで作った人工の島であり、「ヴェネチアを逆さまにすると森ができる」とも言われている。島は117の小さな島から形成され、真ん中を大運河が走っている。網の目のように入り組んだ177 の細い運河と400 の橋、そして狭い路地がこの街を特徴づけており、大きな魅力となっている。

 ヴェネチアの歴史は、5〜7世紀に他民族の攻撃から逃れた人々が、防衛に優れた干潟に移住してきたことに始まる。7世紀に自治権が与えられ、以後1000年にわたって共和制が維持され、貿易を中心として長い間繁栄した。大運河の両岸には、繁栄を物語る建物が並んでいる。この千年共和国に終りを告げさせたのが、あのナポレオンである。ヴェネチアは芸術の都でもあり、大運河に面したサン・マルコ広場では、多くの画家が自分の絵を売っている。そのような場所でスケッチするのに気後れしながらも、数枚スケッチをした。狭く、入り組んだ小運河は、ヴェネチアならではの景色であり、どこを切り取っても絵になりそうである。このような小さな風景は、とても好きである。もう1枚のスケッチは、サン・マルコ広場から対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会を描いたものである。夕陽で黄金色に輝く教会は、非常に印象的な風景であった。

2008年 9月 ヴェネチアの運河(サインペン、水彩)
2008年 9月 ヴェネチアの夕暮れ(水彩)
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フィレンツェ(イタリア)

 屋根のない美術館とも言われているフィレンツェの歴史は、メディチ家抜きには語れない。金融業で富を築き上げたメディチ家は、フィレンツェを支配するとともに、芸術家を手厚く保護した。そのため、建築、絵画、彫刻において、ボッティチェリ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの巨匠が活躍するルネッサンス文化の中心地として大きく開花した。特に、ミケランジェロは、メディチ家の家長のロレンツォから養子のようにかわいがられ、多くの彫刻や絵画を残している。

 中央駅正面からまっすぐ歩いていくと、フィレンツェのシンボルとも言えるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に出会った。「花の聖母マリア」の意味を持つこの大聖堂は、まさにメディチ家の富と権力を誇示するかのように、緑と白の大理石で造られた巨大で荘厳な建物である。これまでに見たどの教会ともまったく異なる様式であり、新鮮な感動を与えてくれた。石畳の道路をさらに行くと、ヴェッキオ宮殿、ウフィッツィ美術館と続く。宮殿前のシニョリーア広場は、中世のフィレンツェの政治の中心であった所であり、ミケランジェロの代表作であるダビデ像が立っている。現在あるものはレプリカだということを聞き、ちょっぴり残念であったが、周りには多くの彫刻が並んでおり、フィレンツェならではの趣である。

 さらに足を伸ばし、丘の上にあるミケランジェロ広場まで登ってみた。下の絵は、広場の石段に座って描いたフィレンツェ市街である。描き終わる頃には、多くの国から集まった観光客が石段に並んで腰掛け、陽が沈むのを何するともなく待っていた。こののんびりとした空気は、とても心地よいものであった。

 翌日はウフィッツィ美術館を訪れた。ルネッサンスを代表する多くの絵画の中でも、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」と未完成の大作に強い感動を受けた。

2008年 9月 ミケランジェロ広場から見たフィレンツェ市街(サインペン、水彩)
2008年 9月 ヴェッキオ橋(サインペン、水彩)
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ミラノ(イタリア)

 イタリアは歴史の宝庫である。ローマやフィレンツェ、ヴェネチアなど多くの都市は、古代ローマや中世のルネッサンス文化に酔いしれる街である。これに対し、ミラノは少し趣を異にしており、「ファッション」と「デザイン」で代表されるように、現代イタリアの情報発信の中心地である。しかし、歴史的都市構造も数多く残っており、中世と現代が不思議にミックスした街とも言える。

 ミラノには網の目のように路面電車が走っている。中央駅から街の中心の方に向かう電車に乗ってみた。何度も方向を変えるのでどこに行くのか心配になったが、やがて古い建物の間の狭い石畳の道を走るようになったので、適当なところで降りて少し歩くと、突然ドーモが目に飛び込んできた。大理石の表面の汚れを落とし、淡いピンクになったドーモは、周りのいかにも古めかしい建物の中で、まるで童話の世界のように浮き上がって見えた。大理石の建物がこんなにも美しいものなのかと驚かされた。

 ドーモの前の広場から、これもミラノを象徴する美しいアーチ型ガラス天井のガレッリアを抜けると、ミラノスカラ座の前に出た。言われないとそれと分からない建物であり、パリやウィーンのオペラ座をイメージしていたので、ちょっと拍子抜けした。しかし、ホールはさすがに立派であり、ぜひここでオペラを鑑賞したいものだと思った。

 複雑な路面電車に戸惑いながら、停留所にいた言葉がまったく通じないペルー出身のおばさんの案内で、ようやく中央駅に戻ることができた。

2008年 9月 コロッセオ内部(サインペン、水彩)
2008年 9月 ミラノ、ドーモ(サインペン、水彩)
2008年 9月 コロッセオ(サインペン)
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ローマ(イタリア)

 「永遠の都ローマ」、「すべての道はローマに通ず」、「ローマは一日にして成らず」など、ローマを表す諺が多いのも、この街がいかに歴史的な街であったかを物語っている。ローマには、古代ローマの遺跡に始まり、キリスト教の聖地としてのローマ、ルネッサンス文化の代表的建造物や絵画など、他の都市には見られない歴史がある。

 映画「ローマの休日」で一躍有名になったスペイン広場やトレビの泉には、いつも多くの観光客や若者が集まり、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂には観光客が溢れている。また、フォロ・ロマーノ(古代ローマの政治の中心)からヴェネチア広場に抜けると、壮大なエマヌエーレU世記念堂(1911年完成)があり、このようなものを見ていると、ムッソリーニが「ローマ帝国の復活」を夢見た気持ちが分かるような気がしてくる。

 ローマには数多くの魅力溢れる場所があるが、何と言っても古代ローマの遺跡に勝るものはない。その代表的なものがコロッセオ(円形闘技場)である。「コロッセオが滅びるとき、ローマは滅び、そのとき世界も滅びる」と言われたコロッセオは、スペインや南フランスで見たどの円形闘技場とも、そのスケール(45,000人収容)といい、美しさといい、比べ物にならないものであった。他の円形闘技場が石だけで造られていたのに対して、コロッセオのかなりの部分がレンガで造られており、そのため非常に美しい建造物となっていた。その美しさとは裏腹に、100日間にわたる完成記念イベントでは、数百人の剣闘士が命を落としたと言われている。

 コロッセオに隣接したフォロ・ロマーノは、古代ローマの民主政治の中心であり、神殿や凱旋門、バジリカなど、数多くの遺跡が広がっている。凱旋門から緩い坂を登っていくと、皇帝たちの宮殿のあったパラティーノの丘となる。これらの遺跡(古代ローマの中心地)が、現代のローマの中心地にあるというところが、ローマが「永遠の都」と言われている所以かもしれない。

 ローマを離れる日に、カラカラ浴場を訪れた。一度に数千人を収容できる世界最大のこの浴場は、体育室、礼拝堂、図書館などもあり、浴場というより、総合的な社交場としての役割を果たしていたようである。ほとんど崩れ落ちてしまったが、他の遺跡と同じように、レンガ造りの素晴らしい建物であった。観光客の少ないこの遺跡の前の広場で、最後のローマを静かに過ごした。

2008年 9月 パラティーノの丘(サインペン、水彩)
2008年 9月 カラカラ浴場(サインペン、水彩)
2008年 9月 カラカラ浴場(サインペン、水彩)
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A collection of Sketches and Essays
第二部 スケッチの山旅

 山の楽しみは、山に行くことそのものである。大学のワンゲル時代は、宮城県と山形県の間、山寺の近くの小さな山域に毎週のように出かけていた。そのころはよく「山に入る」という言い方をしていた。山の中に居ることだけで満足であった。晴れているとか、雨が降っているとかはほとんど気にならなかった。

 子供が小さい頃は、いわゆるファミリー登山のはしりを実践していた。家族4人で小さなテントに潜り込みながら、いろいろな山に行った。子供にとって山はどんなものであったかは分からないが、今は山にまったく近寄ろうとはしない。

 35 歳頃からしばらく山から遠ざかっていたが、二人合わせて100歳になった(つまり50歳になった)ことを契機に山を再開した。この時から山の楽しみ方に一つ加わったもの、それが山のスケッチである。

 スケッチを描くと、山とじっくり向かい合うことができ、写真とは違った楽しさがある。スケッチの残っている山行は天気に恵まれていたことになる。吹雪の中、あるいはホワイトアウトの中をスキーで登った安達太良山は、スケッチとは程遠い。正月の八ヶ岳や南アルプスのスケッチもほとんどない。2000年の正月、横岳の稜線から赤岳をスケッチできたのは奇跡的な感がする。

 こ数年はもっぱらロッククライミングに移ったため、スケッチを描く余裕などまったくなくなってしまったのは残念である。

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剱岳(2,998 m)北アルプス

 穂高岳と剱岳は別格である・・・・多くの登山者、特にクライマーならば誰しも抱く想いであろう。日本のアルピニズムの黎明期を語る上で重要な山であることも共通している。

 剱岳はその名のとおり、剣のような鋭さと鋼鉄のように強靭な岩ぶすまによって守られ、長い間登頂できない山と考えられてきた。実際、初めて登られたのが明治40年(1907年)と遅く、既に日本アルプスの山々は登り尽くされた後であった。

 剱岳の東面は、源次郎尾根が頂上に向かって真っ直ぐ突き上げ、その両側に長次郎谷と平蔵谷が食い込んでいる。これらの名前は、信仰の山である立山のガイドの村として知られている芦峅寺の名ガイド、宇治長次郎、佐伯平蔵、佐伯源次郎の名前をつけたものであり、近代登山の黎明期に果たした芦峅寺ガイドの功績がいかに大きいものであったかを伺い知ることができる。

 宇治長次郎らが初登頂した時、頂上に1000年以上前、奈良朝後期から平安初期のものと思われる錫杖の頭と槍の穂先があったという話は驚きである。信仰の力とは凄まじいものである。修験者は、あの岩場をどのようにして登ったのであろうか、無事下山できたのであろうか ・・・・ はるか昔に想いは飛ぶ。

 剱沢小屋から眺める剱岳は、時間を忘れさせてくれる。この2枚のスケッチは、5月の連休に春スキーに行った時のものである。

 剱沢の上部は広々としており、どこでも好きなところを滑ることができる。登り返すことを考えなければ、どこまでも滑って行きたい気分に駆られる。逸る気持ちをグッと押さえ、剱御前の稜線をさらに登ると、どこからでも剱沢小屋めがけて広大な急斜面を豪快に滑降できる。これを楽しむために雷鳥沢の急登を頑張って登るようなものである。滑った後下から見上げると、斜面が逆光に光り、その中に自分のシュプールが残っていると嬉しくなる。

 いつも剱沢小屋の前で昼食をとることにしているが、ここからの剱岳はさらに高く、さらに大きい。スケッチにも力が入る。

1999年 5月 剱沢小屋から剱岳(サインペン、水彩)
1998年 5月 剱沢小屋から剱岳(サインペン)
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裏剱

 日本の代表的アルパインルートであるチンネの見える裏剱の景観は、日本の山岳風景のベスト1かもしれない。

 97年の秋、紅葉の立山〜剱岳〜黒部を4泊5日でのんびり歩いた。池の平で2泊という贅沢さである。ところがあいにくの雨続きで景色が見えず、さすがにがっかりした。気の毒に思ったのか、小屋番のお兄さんが、泊り客もいないのに風呂を沸かしてくれた。風呂は小屋の裏の露天にあり、天気がよければ、月明かりの中の裏剱を眺めながら入ることができるはずである。

 黒部へ下るという日の朝、テントから顔を出したとたん素晴らしい景色が目の前に広がった。前日まで雨で何も見えなかったため、素晴らしさが一層際立った。

 仙人池からの裏剱は、山岳写真にもよく登場する景色である。池にその姿を映すだけで、少し離れたところから見る裏剱と違った景色に見えるから不思議である。やはり池に映らなければ意味がないのであろう。

1997年 9月 仙人池に映る紅葉の裏剱(ダーマトグラフ、水彩)
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穂高連峰(3,190 m)北アルプス

 穂高岳は実に素晴らしい。「二人で100 歳記念登山」も槍ケ岳から穂高連峰への縦走を選んだ。

 穂高岳とは、最高峰の奥穂高岳(奥穂)を中心とした、北穂高岳(北穂)、西穂高岳(西穂)、前穂高岳(前穂)、涸沢岳などの総称である。上高地の河童橋から見る、前穂と奥穂を結ぶ吊り尾根は、誰でも楽しむことができる雄大な景観である。

 奥穂は大きな塊の山であり、日本第3の高峰にふさわしく堂々としている。頂上から少し西穂の方に行ったジャンダルムは、奥穂の代名詞のような存在である。奥穂があまりにも大きい分、西穂はあまり目立たないが、なかなかいい山である。下のスケッチは、晩秋の西穂に登った時に、目の前に広がる雄大な前穂と岳沢を描いたものである。秋は山肌が錦の衣をまとったように複雑な色になり、魅力的である。

 北穂は、西側は滝谷に削られ、北側は大キレットに削られた厳しい表情の山である。滝谷は「鳥も通わぬ」と言われるほど急峻で、落石も多く、過去に多くの遭難者を出している。頂上直下にある北穂小屋のテラスから大キレット越しに見る槍ヶ岳の景色は、日本を代表する山岳風景と言える。このテラスに座っていると、つい時間を忘れてしまう。次のページのスケッチは、北穂滝谷ドーム北壁のクライミングの前に、小さなスケッチブックに描きとどめたものである。

 前穂を象徴するのは、前穂北尾根と呼ばれる特徴ある尾根の景観であろう。涸沢から北穂への登山道からは、絶えずこの美しい尾根が見えるお陰で、急な登りもなんとか頑張ることができる。また、前穂東壁は、井上靖の「氷壁」の舞台となった岩壁としても知られている。

 これらの山に囲まれた涸沢はまさに別天地であり、そこに居るだけで幸せにしてくれる。厳冬期の涸沢は訪れることはかなわないが、残雪期、そして晩秋から初冬にかけての涸沢は最高である。ナナカマドの紅葉と稜線の新雪と青空に出会うことができたら、本当に幸せ者である。

 穂高と言えば、ウェストンと上條嘉門次の名前が思い起こされる。英国人宣教師のウェストンは、明治20年代に北アルプス、中央アルプス、南アルプスを巡り、日本アルプスとして欧米に紹介した。ウェストンは、それまでの狩猟や信仰のための登山から、楽しむための登山を日本に広めた近代登山の父である。上高地では毎年6月にウェストン祭を開いていることからもその功績の大きさが伺える。

 そのウェストンを長年にわたって穂高に案内したのが、上高地で猟師をしていた嘉門次である。当時は上高地に入るためには徳本(とくごう)峠を越えていた。ウェストンが「日本で一番雄大な眺望の一つ」と称した峠からの穂高の景色も、今はほとんど人の目に触れることはない。嘉門次とウェストンの親交は20 年以上に及び、友情の証としてピッケルを贈られたことはよく知られている。嘉門次小屋は今でも上高地の明神池のほとりで多くの登山客を待っている。

1999年 10月 西穂山頂から晩秋の前穂と岳沢(サインペン、水彩)
2006年 8月 北穂小屋のテラスから槍ヶ岳(サインペン)
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槍ヶ岳(3,180 m)北アルプス

 槍ヶ岳は遠くの山からでも、真っ先にそれと分かる山である。大学1年の夏合宿で、餓鬼岳から燕岳、大天井岳を越え、東鎌尾根を登って槍ケ岳に登った。しかし、槍の肩にたどり着いた時にはすっかりバテていたため、先輩が槍の穂先に登るのを槍の肩に寝転んで待っていた苦い想い出がある。夫婦合わせて100歳記念登山でようやく槍の穂先にたどり着いた。実に夏合宿から32年経ってしまった訳である。

 槍ケ岳を開いたのは播隆上人であり、1828年に頂上に3体の仏像を安置し、多くの信者が登れるように「善の綱」を懸けた。その後、鉄鎖を懸けるための浄財集めに奔走し、貴重品である鍋、釜、包丁を集め、1840年に信者とともに念願の鉄鎖を懸けた。その年の10月、鉄鎖の懸垂を見届けるかのように大往生した。「山はゆっくり歩かねばならない・・・・・いそいで歩き、いそいで休み、またいそぐのはいけない・・・・・岩登りにあっては岩を恐がってはいけない・・・・・岩を突き放すようなつもりで登るのが丁度いい・・・・・」現代にも通じる播隆上人の教えである。

 槍ケ岳で忘れてはならないのは、冬の北鎌尾根で遭難死した二人の登山家である。一人は「単独行」の著者として有名な加藤文太郎(1936年1月死亡)であり、もう一人は「風雪のビバーク」で有名な松濤明(1949年1月死亡)である。どちらも、滑落した同行者を助けようとして吹雪の中で共に死んでいった。「我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ体ヲ作ル 個人ハカリノ姿 グルグルマワル」 松濤明が手帳に綴ったこの遺書は、大町の山岳博物館に展示されている。

 このスケッチは、11月に燕岳に登った時のものである。家に帰ってから色をつけようと思ったが、いまだにそのままになっている。やはりスケッチはその場で感動を写すものなのであろう。

1997年 11月 燕岳から北鎌尾根と槍ヶ岳(ダーマートグラフ)
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立山(3,015 m)山岳信仰の山

 立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし(大伴家持)・・・・立山は万葉集の時代から、神の住む山として崇められてきた。

 立山は、神社が祭られている雄山、最高峰の大汝山、富士の折立の三つの頂から成る。立山三山とは、この立山と別山、浄土山を指すようである。立山は、浄土山、大日岳、弥陀ヶ原、室堂、地獄谷などの名前からも分かるように、古くから信仰の山であった。

 一方、黒部ダムの建設以降、大規模な開発が行われ、日本最大の山岳観光地となった。トロリーバスやケーブルカー、ロープウェイなどを乗り継いで、誰でも室堂まで入れるようになっている。

 1997年から1999年の3年間、GWに雷鳥平にテントを張って、山スキーを楽しんだ。雷鳥平の魅力の一つが、夕陽に染まる立山である。本当に紅く染まるのはほんの一瞬であるが、この景色を堪能できるのも、雷鳥平に何日もテントを張っている者の特権である。特に、ロッジ立山の風呂に入りながら眺めるのは最高の気分である。

 雷鳥平をベースとした場合、立山方面と剱沢方面の(第1回に掲載)二つのコースに分かれる。

 立山方面の場合、一の越までスキーにシールをつけて登り、そこにスキーを置いて、雄山を往復することになる。反対側の浄土山の頂上からは、小さなカール状の沢を滑降し、さらに雄山の西側の広大な斜面を雷鳥平まで大滑降である。壮快である反面、登りの苦しさを考えると、一気に滑るのがもったいない気がする。一の越から黒部湖までの御山谷大滑降も忘れられない。

1999年 4月 雷鳥平から立山(サインペン、水彩)
1999年 5月 浄土山から剱岳(サインペン、水彩))


 信仰の山としての立山の歴史は古い。開山については諸説があるが、飛鳥時代に佐伯有頼という少年が開いたという説が一般的である。逃げた鷹を追いかけているうちに出会った熊を矢で射ると、熊は血を流して逃げた。血をたどっていった有頼が洞穴の中に見たものは、矢を射立てられた阿弥陀如来の姿であった。以来、有頼は僧となり、山に留まって開山したとされている。

 江戸時代には信仰登山が盛んになり、多くの信者が、白装束に身を包んで、日本一の落差を誇る称名の滝の脇から急な斜面を登って弥陀ヶ原に出て、地獄谷を眺めながら立山大権現(当時は神仏習合であったが、明治政府の神仏分離令によって、現在は雄山神社となっている)の祭られている雄山を目指したのであろう。立山禅定は立山曼荼羅と呼ばれる絵図を用いて、広く全国に布教された。

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木曽御嶽山(3,067 m)山岳信仰の山

 八ヶ岳から西の山並みを眺めた時、北アルプスの南に、台形の形をした立派な独立峰が見える。これが木曽御嶽山である。

 日本の3000m峰でまだ登っていないのは、御嶽山と乗鞍岳だけということで、2000年3月に御嶽にスキーを担いで出かけた。スキー場のゴンドラ終点の先、田の原で風を避けてテントを張り、一夜を過ごした。周りには誰もおらず、吹雪の音だけがゴウゴウと響き、なんとも心細い。

 翌日は素晴らしい青空であったが、強風が吹き荒れ、稜線はもちろん、斜面のあちこちからも地吹雪の雪煙が舞い上がっていた。田の原から見上げる御岳は高く、急峻で、人を寄せ付けない神々しさを見せており、その迫力に圧倒され、頂上に向かうのを諦めた。

 同じ年のGWに、再度同じコースに挑んだ。5月ともなると天候も穏やかな日が続き、頂上まで登ることができた。ザックに二人分のスキーを十字架のように括り付け、王滝頂上までの急な斜面を喘ぎ喘ぎ登った。その苦労も、帰りの大滑降で一気に吹っ飛んでしまった。

 下のスケッチは、田の原に張ったテント脇から見上げた御岳である。ここから頂上は見えないが、王滝頂上までの広大な急斜面が素晴らしい。

 御岳は信仰の山として異色の存在である。これまでもいくつもの信仰の山を登ってきが、それらとはまったく異なった雰囲気を持っている。それは麓の王滝村から既に始まり、全国から奉納された多くの碑が並んでいる。頂上には御嶽神社奥社があり、宿泊施設が整っている。この他にも、田の原、王滝頂上などには大きな宿泊施設があり、夏ともなると、多くの信者が白装束に身を包んで頂上を目指す。

 御岳の開山は、あまりにも古いためはっきりしないが、700年代初頭には既に信仰の対象として登られていたようである。現在の御岳教はそれほど古くなく、明治15 年に始まったものである。

 御岳に行くために、初めて木曽路を旅した。素朴な雰囲気が多く残っており、魅力ある路である。「木曽路はすべて山の中である」で始まる島崎藤村の「夜明け前」の舞台にもなった旧中山道の宿場町は、今でも昔の名残をとどめている。山とは別に、ゆったりとした旅をしたいものである。

2000年 5月 田の原から木曽御嶽山(サインペン)
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赤岳( 2,899m)と横岳(2,829m)身近なアルパイン

 八ヶ岳は、四季を通じて比較的手軽に登ることのできる貴重な山である。特に、年末年始は気候も安定しており、雪山の雰囲気を存分に楽しませてくれる。小雪の降る初冬の赤岳に、まだ赤ん坊の息子を背負って登ったこともある。

 八ヶ岳は、南北30キロ,東西15キロの独立した火山群の総称であり、八ヶ岳という山がある訳ではない。八ヶ岳は夏沢峠を境に、北八ヶ岳と南八ヶ岳に分けられ、両者の山容は大きく異なる。前者は、針葉樹林に囲まれた女性的な山容であり、「北八ツ」として親しまれている。後者は、荒々しいアルペン的な山が連なっており、男性的な山容である。

 私にとっての八ヶ岳は、圧倒的に南八ヶ岳である。特にここ数年は、赤岳鉱泉をベースとして、ジョーゴ沢、裏同心ルンゼ、大同心大滝、南沢大滝などでアイスクライミングを楽しんでいる。

 1999年の11月、正月山行の偵察を兼ねて、赤岳から横岳、硫黄岳と回った。行者小屋はもう店仕舞いしており、静かなテントサイトであった。さっそく、午後のやや赤味がかった光で一層赤く染まった赤岳をスケッチしたが、色を塗ろうとすると、筆先や紙の表面が凍ってしまって塗ることができない。太陽が出ていても、やはり寒いのである。仕方が無いので、テントの中で色を塗った。

 硫黄岳頂上からは大同心、横岳、赤岳、阿弥陀岳と、パノラマの景色が広がる。素晴らしい景色ではあるが、全体的に逆光になるので、スケッチする立場からはちょっと描きにくくなる。

 2000年の正月は、雪が驚くほど少なく、横岳通過もあっけなかった。季節風も弱く、横岳稜線の陽だまりから赤岳をスケッチすることができた。まさか冬山の稜線でスケッチできるとは思ってもいなかった。サインペンだけのスケッチではあるが、お気に入りの1枚である。雪で白くなった斜面に黒い色を塗るのは気分的に抵抗があったが、真っ白にしたのでは絵にならない。

 正月の赤岳鉱泉は、所狭しとテントが並ぶ。天狗岳から縦走して大晦日に着いたのでは、もうほとんど場所がなく、ちょっと外れた林の中にテントを張った。最後の1枚は、テントの脇から、朝日の中に黒々とシルエットになっている大同心を描いたものである。今度は逆に、真っ黒に描いたのでは絵にならず、適当に光りを作りながら描いた。こういうところが、写真とは違った面白さである。

 八ヶ岳も、かつては山岳信仰の対象とされており、山頂には赤岳山神社が祀られている。赤岳を中心に、権現岳、阿弥陀岳、大同心・小同心、摩利支天、石尊峰、奥の院、行者小屋など、山岳信仰を偲ばせる名前がつけられている。

 八ヶ岳にはちょっとおもしろい伝説がある。大昔(いつの頃か分からないが)、富士山の女神と、赤岳の男神が、お互いに自分の方が高いと主張し合い、長い間口論したという。それを見かねた阿弥陀様が仲裁することになり、赤岳と富士山の頂上に長い樋を掛け、これに水を流した。その結果、水は富士山の方へ流れ、赤岳の方が高いということで決着した。どうにも収まらない富士山の女神は、怒りを爆発させ、赤岳を蹴飛ばしたため、赤岳の頂上は八つに割れて低くなり、今のような山容になったのだという。確かに、八ヶ岳の広大な裾野を見ると、「今よりもっと高い山だった」と言い張ってみたくなる気持ちも分かる。それにしても、負けて暴れる富士山の女神は、俗人っぽく、親しみを感じさせてくれる。最後に力ずくでねじ伏せるのが、男神ではなく、女神であるところも微笑ましい。

 八ヶ岳は、山自体はもちろん素晴しいが、唐松の紅葉で黄金色に染まった裾野もなかなかよい。唐松の落葉が堆積したフワフワの山道は、山の暖かさを感じさせてくれる。

1999年 11月 行者小屋から赤岳(サインペン、水彩)
1999年 11月 硫黄岳から赤岳と横岳(サインペン、水彩)
2000年 1月 横岳稜線から赤岳(サインペン)
2000年 1月 赤岳鉱泉から横岳と大同心、小同心(サインペン)
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妙高山(2,454 m)〜 雨飾山( 1,963 m)

 頚城山塊は、妙高連峰(妙高山、火打山、焼山、雨飾山 等)、戸隠連峰(乙妻山、高妻山、戸隠山等)、飯縄山、黒姫山の4つに分けることができる。このうち、妙高山、火打山、焼山を頚城三山と呼んでいるようである。北アルプスのさらに北に位置するということもあり、私にとっては馴染みのない山域であった。

 1998年の秋、大学のワンゲルOB山行を雨飾山で行うことになり、4年上の先輩と、燕温泉から、妙高山、火打山を越えて雨飾山に行った。

 妙高山は古い火山であり、頂上は岩がゴツゴツしているが、周辺には湿原や池塘も多い。それまで名前すら知らなかったが、紺碧の空をバックに、天狗の原の池塘に映る紅葉の火打山は実に美しかった。雪に包まれるとさらに素晴らしいだろうと思われ、スキーを担いで来てみたいと思いつつ、未だに実現していない。

 火打山の頂上からは、これから行く雨飾山が見える。しかし、途中にある焼山が登山禁止になっているため、一旦林道に下り、峠越えをしなければならない。この林道歩きが実に長い。妙高、火打を登った後、5時間半もの林道歩きは実に長かった。

1998年 9月 火打山から焼山・雨飾山(サインペン、水彩)


 雨飾山の魅力は、荒菅沢の奥に屏風のように連なる岩壁である。残念ながら、その迫力をスケッチに残すことはできなかったが、頂上で後輩を待っている間に、前日の火打山からとはまったく反対側から、焼山方面をスケッチすることができた。

 妙高山も、他の険しい山と同様に、古くから山岳信仰の山となっており、江戸時代には多くの信者によって登られていたようである。開山の時期は、奈良朝ではないかという説もあるようであるが、はっきりしていない。

 1181年、木曽義仲が越後の国に入った折、妙高山頂に阿弥陀如来を祭ったとされている。木曽義仲が源頼朝に滅ぼされる10年ほど前である。その頼朝が幕府を開いた鎌倉時代は、妙高阿弥陀如来信仰はかなり盛んだったようである。この仏像は、明治時代まで山頂の舎に残っていた。

 頚城山塊で特筆すべきは、日本のスキー発祥の地であるということである。日本にアルペンスキーを伝えたオーストリアの陸軍武官、レルヒ少佐が、高田十三師団の鶴見大尉らと妙高山にスキーで登頂したのは、明治45年のことであった。

1998年 9月 雨飾山から焼山・火打山(サインペン、水彩)
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平ヶ岳( 2,141 m)

 平ケ岳は、利根川源流に位置する奥深い山である。越後駒ケ岳と尾瀬の至仏山の丁度中間にあり、一般登山道も、銀山湖の方に伸びる長い尾根につけられたものが1本あるだけである。百名山制覇を目指している人の記録によると、百名山の中でも最も長いコースのようである。これだけ長い頂上往復の間、山小屋がまったくないというのも、静かな山が保たれている理由の一つであろう。

 平ヶ岳の頂上には広い湿原が広がっており、まことに気持がいい。今は木道があって自由に歩くことができないが、40年前、学生時代の夏合宿で訪れた時には、登山靴を脱ぎ、裸足で勝手気ままに歩き回ることができた。

 この年の夏合宿は、上越一帯に数パーティが分散し、最後は沢や藪ルートを辿って平ヶ岳頂上に集中するというものであった。しかし、最初に到着したパーティが、雨の中、テントの中でガソリンを燃やしてしまい、数人が顔に火傷をするという事故を起こしてしまった。彼らは、頂上を目の前にして下山せざるを得なかった。

 それから32年後の秋、平ケ岳で同期山行があった。その時、顔に火傷を負って頂上まで行けなかった者が、事故を起こした場所で見せた感慨深げな顔を忘れることができない。このスケッチはその山行での1枚である。

1999年 9月 玉子石付近から平が岳(サインペン、水彩)
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安達太良山( 1,700 m)

 高村光太郎の詩集「智恵子抄」の「あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川」という一節で有名な安達太良山は、那須火山帯に属する火山群であり、幾つかのピークを連ね、土湯峠で吾妻連峰と接している。主稜線は荒涼とした岩稜が続き、こじんまりした連峰ながら、魅力的な山である。冬のこの稜線はシュカブラ(強風でできる雪の文様)で覆われ、青空ともなれば、本当に美しい。

 安達太良山の魅力の一つが、通年営業しているくろがね小屋である。明るい陽光の中、窓を開け放って山肌を眺めながら入る乳白色の温泉は、実に気持ちがよい。ここ数年、2月か3月に山スキーで訪れることが多いが、吹雪の中を苦労して登って来た時など、温泉はまさに極楽の気分である。

 下のスケッチは、五葉松平から主稜線を描いたものである。風雨の中、傘をさし、風でめくれないよう、スケッチブックを片手で押えながら大急ぎで描いた。画面で点々と見えるのは、雨粒の跡である。

1999年 6月 五葉松平から安達太良山(山頂は左)(水彩)
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モンセラート(1,235 m)スペイン

 モンセラートは、バルセロナの北東約60km のところにある山で、「ギザギザな山」を意味している。その名のとおり、指を立てたような、丸みを帯びた岩峰が延々と続き、山肌の岩壁も雨水によって刻まれた無数の溝が走り、まさに奇岩の連続である。この山の岩は、レキ岩と呼ばれる堆積岩で、まるで浜辺の丸い小石をセメント(泥)で固めたような感じである。岩の色は、淡いピンク色なので、山全体が明るい印象を与える。

 岩壁の中腹には、アーサー王の聖杯伝説に登場するベネディクト修道院があり、モンセラートラック鉄道の駅から、目がくらむように高いゴンドラに乗って行くことができる。

 修道院からケーブルカーで稜線まで登ることができ、ハイキングコースが頂上まで延びている。ここから、無数の奇岩が延々と続いている雄大な景色を楽しむことができる。近くの岩塔には、クライマーが垂直の壁に取り付いているのが見える。

2001年 9月 モンセラート(サインペン、水彩)
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ロンダ(780 m)スペイン

 マラガでレンタカーを借り、ヨーロッパを代表する避暑地であるコスタ・デル・ソルを走り抜け北に向かう。くねくねした山道をひた走っていくと、やがて高原の中に忽然とロンダの街が現れる。

 ロンダは山ではないが、素晴らしい断崖絶壁で有名である。旧市街と新市街を分けるタホ谷は、深いところでは300mにも達する。

 下のスケッチは、断崖につけられた小道を谷底近くまで下りて、ロンダの象徴でもあるヌエボ橋を見上げたものである

2001年 9月 ロンダ(サインペン、水彩)
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ウィスラー(2,182 m)カナダ

 ウィスラーは、バンクーバーから車で2時間のところにある北米随一のスキーリゾートであり、2010年の冬季オリンピックのスキー会場に予定されている。標高差1600m、最大滑走距離11km、滑走コース200以上、リフトの1時間当たり輸送能力5,900人、3つの氷河 ・・・・ 日本では想像もできないスケールである。

 ここでは、スキーに限らず、1年を通じてアウトドアスポーツを楽しむことができる。ゴンドラとリフトを乗り継いで頂上に登り、夏でも雪をいただくロッキーの山々と氷河の雄大な景色を満喫した。

2006年 7月 ウィスラー(サインペン、水彩)
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ブルーマウンテン(1,500 m)オーストラリア

 夫婦でロッククライミングを始めて6年、初の海外遠征が、世界遺産にもなっているブルーマウンテンである。

 ここは、シドニーから西に約100km、標高1500mほどの広大な丘陵地帯である。車で約1時間、目的地に着いたのに、どこにも山らしきものが見当たらない。てっきり山は見上げるものとばかり思っていたが、実は自分が山の上に居たのである。

 ブルーマウンテンは、街がある丘陵地帯の縁が、高さ100m前後の断崖絶壁で囲まれ、その下にユーカリの原生林に覆われた深くて広い谷が広がっている。このような景色が、はるか彼方まで延々と続いている。ユーカリの木に含まれている油分が揮発し、青いフィルターがかかっているように見えるところから「ブルーマウンテン」の名前がつけられたという。一口にユーカリと言っても、その種類は500種類を超えるそうである。

2006年 3月 ブルーマウンテン・スリーシスターズ(サインペン、水彩)
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鷹取山(139 m)日本

 鷹取山は、6年前に始めたロッククライミングの原点である。地元横須賀にあるこの山は、昔の石切り場跡であり、今は東京湾と相模湾を見下ろす高台の公園になっている。天気のよい休日には、クライマーだけではなく、ハイカーや家族連れ、犬を連れた近所の人などいろいろな人で賑わっている。弁当を持って行き、一日を過ごすのによい所である。

2000年 8月 鷹取山(サインペン、水彩)
平成30年12月 メールにて皆さまへ