キーウのこと − 旧ソ連時代のウクライナ −
11期 (昭和47年卒) 鈴木 元昭

 キーウに行ったことがあります。1985年の9月でした。当時はまだ「ソ連」の時代、ゴルバチョフが書記長に就任したばかりの時期でした。当時、溶接の研究者だったワタクシは、フランスのストラスブールで開かれたIIW(International Institute of Welding)のInternational Conferenceに参加し、日本溶接協会で行った研究成果を報告しました。その報告が終わったのち、キーウに行く機会を得ました。日本溶接協会の一員だったので、団長の藤田譲会長と新日鐵の河野さんの3人で、ソ連の研究所を訪問したのです。

 当時、ソ連の溶接研究は、世界の大きな注目を浴びていました。国家プロジェクトでなければできないような壮大なテーマで研究が進められ、石油やガスのパイプラインを作るときに鋼管と鋼管をつなぎ合わせるためのフラッシュバット溶接や、宇宙での溶接について研究が行われていました。民間の研究が主体の西側諸国の研究テーマとは大きく異なっていました。

 その研究を実施していたのが「パトン研究所」でした。世界でもっと大きな溶接研究所で、キーウにありました。そのパトン研究所を見学するために、キーウに来たのです。

パトン研究所の本
 ストラスブールからウィーンに飛び、ウィーンでアエロフロート航空のソ連機・イリューシンに乗り換えてキーウに入りました。 いきなりトラブル発生。Immigrationの入り口で、金属探知器にひっかかりました。当時のソ連は怖い国だったので、別室に行って服を脱がされて調べられるかなと一瞬、身構えました。
 ところが、キーウ空港の職員は、モスクワの職員と違って、「なんとかして、あんたを通してやる」「悪いのはこの機械だ」というような様子を示したのでした。「モスクワの奴らが使うことを決めたこの機械は、敏感すぎる。迷惑かけて申し訳ない。規則だから身体検査するけど、大丈夫、通してやるから」というようなことが顔に書かれていました。

 そうしたことがあった後、Immigrationを出ると、パトン研究所のスタッフが待っていました。中年のおじさんでした。満面の笑みをたたえて迎えてくれました。モスクワの暗さはみじんもありませんでした。

 車の中で、キーウの街を説明してくれました。お互いに「不自由な英語」を使っての会話でした。彼は、キーウをとても愛していました。何度も言っていたのが、「街路樹の無い道路は、Streetとは言わない」というセリフでした。キーウの街を誇りに思っていました。
 キーウはきれいな街でした。明るく洗練されていました。ヨーロッパの古い街の雰囲気でした。人々は明るく、笑顔にあふれ、開放的でした。市内を流れるドニエプル川は、市民の憩いの場。ボートを浮かべて楽しんだり、水上スキーをしたり、川辺で日光浴をしたり。この川を「ニップル」と呼んで愛していました。とてもいい気分で時間を過ごしました。パトン研究所の副所長との会食も楽しかったです。

 そんな人々が、共通してもっている「別の面」がありました。「モスクワ対する対抗心とモスクワの支配に対する強烈な嫌悪感」です。キーウ人はモスクワ人とは違うんだという強い意思を感じました。明らかに違う人種、違う国でした。

 そんなキーウの人が、今回の「ロシアの侵攻」を許すはずがありません。ロシアが侵攻してから9か月が過ぎましたが、ウクライナの独立心はずーっと強いままです。ウクライナへの愛国心が戦争を支えています。

左の旗は、ウクライナの国旗です。下側の黄色は「小麦」を、上側の青色は「空」を表しています。豊かな国を表現しているのです。同時に、この旗は、反ソ・反共の組織であるウクライナ蜂起軍の軍旗、かつウクライナ系知識人のシンボルでもあったとWikipediaに書いてありました。

    「ウクライナに勝利と自由を!」

令和4年OB会報NO53より抜粋