馴染みの店と私の居場所
8期 (昭和44年卒) 佐藤 拓哉

 馴染みの店と言うと、女将さんがカウンターの中にいる小料理屋をイメージする。私も酒を飲めれば、そういう店の一つや二つはできたであろう。残念ながら、一滴も飲まない私には縁のない店である。とは言え、私にもいくつか馴染みの店がある。共通しているのは、「カウンターのある店」である。

*******************************************************************************
【 蕎麦処 加賀 】

 20年来の馴染みの店である。オギャー(ワンゲル同期の私の奥さん)とクライミングを始め、湯河原・幕岩に行くようになった頃、湯河原でお気に入りの蕎麦屋を捜し歩き、行きついた先が「加賀」であった。湯河原とは言え、「加賀」は県境から数百mほど熱海方面に坂を登った静岡県にある。神奈川で登り、静岡で食べたことになる。明るいご夫婦でやられており、カウンターに座ると話の花が咲く。最近は17時に店仕舞いするので、なかなか訪れるのが難しくなったが、行けば注文しなくてもネギ抜きの名物「加賀そば」が出てくる。

蕎麦処 加賀
*******************************************************************************
【 トラットリア た喜ち 】

 東京の本郷三丁目の裏通りにある小さなイタリアンレストランである。膵臓癌で東大病院に入院していたオギャーを娘と面会に行った帰り、この店に寄ってアマトリチャーナというトマトソースのスパゲッティを食べた。とても美味しかった。数日後、一人で病院に行った娘が店に強引にテイクアウトを頼み込み(コロナ前はテイクアウトをやっていなかった)、アマトリチャーナを病室のオギャーに持っていった。皿、フォーク、ランチョンマットも持っていった。これがオギャーの最後の晩餐になった。その翌日か翌々日から食事を全く受け付けなくなったのである。そんなこともあり、東大に出勤した日は、かならずこの店のカウンターに座って夕食をとっている。また、二人でヨーロッパ旅行した時の水彩スケッチ8枚を店の壁に飾ってもらっている。

トラットリア た喜ち
*******************************************************************************
【 タイ料理 バーン・チェンマイ 】

 横須賀のさいか屋の隣にある小さなタイ料理の店である。オギャーが末期癌の頃、一緒にお昼を食べに行った。オギャーはいつものようにトムヤンクンラーメンを食べようとしたが、抗癌剤の副作用で舌が過敏になり、食べることができなかった。それを見た店のタイ人女性が、刺激のないタイ風焼きそばに交換してくれた。おまけにデザートもサービスしてくれた。オギャーが亡くなってしばらくしてから店を訪れた時、「今日はお一人ですか?」と聞かれた。1年位前の出来事であったが、よく覚えていてくれたらしい。そんなことから、時々お昼を食べに、それだけのために横須賀中央に出かけるようになった。

*******************************************************************************
【 イタリアン Piacere 】

 こちらも横須賀中央の裏通りにある小さなイタリアンレストランである。平日の昼に、前菜+ピザor スパゲッティ+飲み物(お代わり自由)+デザートで1000円というコストパーフォーマンスの良さが売りである。もちろん、それもあるが、5人が座れるカウンターに座ると、目の前で料理するのが見え、すぐ近くにある釜戸でピザを焼く炎の温もりを感じることができる。昼時はいつも混んでおり、忙しそうにピザを焼いているので話すことは少ないが、それでもカウンターでだからこそ、美味しく食べることができる。

タイ料理 バーン・チェンマイ イタリアン Piacere
*******************************************************************************
【 京急 観音崎ホテルのラウンジ 】

 ここは私にとって特別な場所である。昔から、気が滅入った時、オギャーを誘って夜の海を眺めに行っていたところである。オギャーが亡くなり、コロナのために在宅勤務が多くなって一人で家にいることが多くなると、どうしようもなく気が滅入ってしまうことがある。そんな時、観音崎ホテルのラウンジに行き、コーヒーを飲みながら東京湾を眺めているのが大きな救いとなった。不思議なもので、海を眺めているといろいろな考えがポジティブになり、大学での研究の方向性を決めたり、クライミングの計画を整理してみんなに発信した。多い時には三日に二日程度行っていたので、店の人達と懇意になり、注文を聞かずに水とコーヒーを持ってきてくれるようなった。ここはすっかり「私の居場所」となった。しかし、9月末で京急ホテルとしては閉館し、「私の居場所」を失った。来年、新たな経営で再開することになったが、「私の居場所」が残っているか? それは単なる場所ではなく、そこに居た人達でもあった。

京急 観音崎ホテルのラウンジ
令和4年OB会報NO53より抜粋