卒業半世紀の二口  ― その変化は ―
12期(昭和48年卒) 神山 文範

 清水の造船所同期入所5人の横浜の新年会で、一人が「今年は会って半世紀。皆も誘って清水で同期会しないか」と発言した。やろうやろうと言いあう中で、僕はワンゲル卒業半世紀でもあるな、と思った。それで、9月16-17日の久し振りの「4546の会」(S45年と46年にTUWVに入部した仲間の会で、44入部の一部も入っている)が秋保の木の家で開かれるにあたって二口に登ろうと、15日に面白山高原駅から南面白山、小東峠経由で樋の沢避難小屋に泊まり、翌16日大東岳に登り本小屋に下り、土日のみにたった一本運行している仙台市営バス(14:40発)で秋保(木の家)に向かう案を考え、44,45,46入部の皆さんにメールし、メンバーを募った。

15日仙山線で45村野さん、46石川さんと11:13に面白山高原駅に着くと(在仙の44富井さんは単独行で先行)、そこは現役時の仮停車場よりも荒んでいた。スキー場が出来て駅になったが、そのスキー場も既に閉鎖され民宿・食堂街等も廃屋になっていた。名残のリフトと、旧ゲレンデのコスモス畑(「コスモスベルグ」と宣伝されていたが見物客は数名)を横目に、南面白山への道を登る。

途中の橅林は立派だったが、道は細く荒れていた(二日間、大東の下りで出会った数名以外に人影は無く)。頂上の道標は立派だったが、北面白山方面への道は藪化して、小東峠方面への道も背より高い笹が覆っていた(現役時も低い笹はあったが温暖化の影響だろうか)。笹薮を漕いでなんとか小東峠に着き、石川さんと僕は細い道を小東岳往復。峠から樋の沢への道は荒れていると聞いてはいたが、まさかのルーハンまで強いられ、富井さんが心配になった。

10数分で沢沿いの道に出て、橅林の中を歩いて、昔ながらの樋のような沢を渡り、避難小屋に向けて思わず「富井」と叫んでしまった。富井さんは小屋でシュラフに入っていた。ひどい笹薮だったよなと話しは弾んだが、今度は勤務後に出て、本小屋に車を置いて沢沿いに登ってくる46の男澤さん、柴田さんが心配になった。予定より遅れて着いたが、心配からかウィスキーを飲み過ぎた僕は何時か記憶にない。

次の日、樋の沢の水場の苔に蛭がいると聞き唖然としたが、6人で元気に大東岳に登り、一本だけの本小屋発愛子駅行きのバスにやっと間に合い(4人が乗った柴田車中でも蛭退治だった)木の家で皆さんに合流できたが、登る人も少ない二口に、丹沢ならともかく二口の蛭と背よりも高く道を覆い隠した笹に、半世紀の変化を感じた。

そして、11月には同期入社入所の50周年会で清水に行った。造船所はソーラパネルの発電所になり、三保の松原の羽衣の松が3代目に変わっていた。同期の仲間と飲みながら、皆の顔の変化に羽衣の枯れた2代目の松が重なり、半世紀の時間をまた感じてきた。
(了)


樋の沢から大東岳への登りにて
令和5年OB会報NO54より抜粋