関川主将を偲んで
4期 (昭和40年卒) 小原 佑一

9月3日、スマホに関川君からの電話を受信しているとの表示。応答してみると声や喋り方が彼と違う。彼の息子さんからの関川君の訃報でした。

 彼は二つの疾患が進行しており、そのことで3月に私の娘(呼吸器内科医)にコメントを聞いてほしいと連絡してきたことがありました。その後、進行が落ち着いている様な連絡があったのであまり気にしていませんでしたが、その時の記録が彼のスマホに残っており、それで息子さんから私のところに第一報がかかってきたと思われます。

 山行について言えば、半世紀も昔のことなので現役時代合宿などで彼と一緒だったという記憶が全く浮かんできません。合宿などはお互いにそれぞれリーダーやサブリーダーで別々のパーティになっていたのでしょう。合宿以外では、私のフリー山行は人のあまり入っていない山や薮に入ることが多く、彼の山の好みとは全く違っていたせいかも知れません。何しろ山の選択でも彼は標準的で、さらに優等生タイプでした。彼は、人をまとめ引っ張っていく、信頼できるという点でリーダーとして、主将が適任でした。

 山以外で彼の現役時代の話をすれば、必ず出てくるのは「痔」の話。手術をし、入院中みんなで何度か見舞いに行き、退院後も「痔」の話題がよく出てきました。卒業してからも彼はいろいろな病気に罹り、何度か手術したはずです。最後はリュウマチと肺がんが同時進行で治療も難しかったみたいです。

 彼の現役時代の写真を探してアルバムをひっくり返してみたのですが、2年の時の南アルプス三伏峠集中後に下山して撮った集合写真が出てきました。あとは卒業後同期(同期が当時19人いたので幾久会と名付けました)で泉ヶ岳に集まり、ヒュッテの脇でテント泊(?)、仙台に戻って部長だった鈴木録弥法学部教授のお宅にお邪魔した時の写真がありました。カラー写真は色が褪色していました。写真はモノクロを含めアルバムから複写しました。

2年の夏合宿、南ア・三伏峠にて

泉ヒュッテ脇で

泉ヒュッテ脇でキャンプ

録弥先生を囲んで

令和5年OB会報NO54より抜粋