韋駄天の瀬尾が逝く
5期 (昭和41年卒) 藤田 凱己

 ある朝、桜さんからの電話で 「藤田メール見たか」と突然言われ何かと思えば瀬尾さんが亡くなったとの事、暫く呆然とする。その後は彼との思い出ばかりでした。

 思い出せば、大学3年生になり八幡町からでは本部は遠いので近くに引っ越ししたいと考えていた。海老君と友人で霊屋下の下宿に住んでいたがその友人が出てしまい、一人ではきついので誰か募集していたので藤田が住むこととなったが海老君はすぐ寮に入れる事になり出た。二人部屋を一人では厳しいので母屋の二階に住んでいた瀬尾君を誘い二人で住む事になった。これが彼と一緒に住む事になった経緯です。

 瀬尾藤田が揃えば雀荘となり良くやりました。試験前には母屋のばあさんが煩いので窓に毛布を張り明かりが漏れないようにして勉強した。電気代込みだから遅くまで電気が点いているとばあさんが煩い。

 初めての東京オリンピックが行われる事となり、我々が住んでいる母屋の前の古い建物を壊して新規に建てるとの事で追い出されました。どうしようかと思案していたら瀬尾さんが下駄ばきの新築アパートを探してきて友人を誘い3人で住む事になった。 

 ここは広いので3人で住む事になったが1人川内を卒業出来なかったので追い出して2人で住む事になった。彼は函館で私は茨城で冬の暖房は彼はストーブ、私は炬燵と分かれたので両方の暖房を使用した。

 学科が異なるので別行動でした。彼は知人が飯豊に山荘を作るとのことでボランティアで歩荷をやったりしていた。月末には河原町に住んでる八重樫(土木)と萩原(応化,故人)がメシ食わせろと来る。その日は何も無くインスタントラーメン2個を野菜多くして4人で食べた思い出もある。

 卒業後はバラバラだが藤田が夏休み東北旅行をした時に八戸の自宅で今の妻を紹介された。彼は我々夫妻の恩人でもあります。

               2025年12月  合掌

令和7年OBG会報NO56より抜粋