20年ぶりの二口
=10期OB会・卒業20周年記念山行 =
10期(昭和46年卒) 若佐 則雄
 10期生16人は、今年“クラプ”卒業20周年を迎えました。大阪の万博のあった年に夏合宿の本部をやり、全共闘の教養部管理棟封鎖を蔵王の雪の熊野小屋の中でラジオで聞き、下宿のテレビで「奥様は18歳」を欠かさず見ていた‥‥、そんな学年です。あれから色々あったような気がしますが、なんと皆が仙台で出会った時の倍の年になっています。途中結婚式などで何回か会っていますが、それにしてもこれは一度会わずばなるまい、という訳で記念山行を企画しました。

 夏の交通混雑、家庭サービス繁忙の時期を避け、9月22日〜23日を集合日にしました。正月からスケジュールを立てていたのですが、宮崎出張と重なった浅野助教授、福岡で自然保護団体の会議に招待参加する薄木補佐官、オーストラリア研修出張の準備で忙しい今井先生、実家の法事が重なった菅原君、。小学校の運動会と重なった本田PTA会長の不運な5人を除く11人と4人の家族(内2人がOG)が参加できました。

 今年の天候は夏以来不順で、週末毎に台風が来ました。そんなサイクルの中、その日は奇跡的に2日とも快晴!さわやかな二□でした。

 予定では初日に大東岳に皆で登るはずでしたが、集合時間に10分程遅れて登山口に行ってみると誰も居ない。先に行くとも思われないので、結局誰も登らないのか‥‥などと思いつつ歩き始めました。本小屋から大東岳へのコースは実に美しいプナの疎林だったということ知ってますか?適度に小沢が道を横切り歩きやすい。2時間半で頂上に出て、藪漕ぎで難儀した大東バックにつけられた道を右に分け、面白山を一にらみしてから龍が峰、神室、蔵王が見える展望の良い肩で休もうと行ってみると、往年の貴(奇?)公子田中君が、見知らぬ中年の女性3人のすぐ横で仲よさそうに休んでいるではありませんか。

 お邪魔しては失礼と結局休まずに先行しましたが、樋の沢まで来るとヘリコブターがひっきりなしに何かを運んでいます。聞くと樋の沢のテントサイトに避難小屋を建てるとのこと。当時樋の沢でテントを張る時、最初にリーチした辺りです。大東から下りてきて少し右に上がった付近。水場は健在でした。あの辺はどこを掘ってもダストホールがあるはずです。

 桔局そこでもうるさくて休めず、裏盤司歩道を芋煮会場へ急ぐことにしました。裏盤司も改めて見直しました。あんな素晴らしいなめた明るい沢だったんですね。なんで遡行しなかったんだろう‥‥などと思いながら1時間半、樋の沢出会い芋煮会場に来てみると、懐かしい全員が集まり、早くもビールが回っているではありませんか。

 かまどのわきで材料を刻む甲斐君の後ろ姿は、夏合宿の爛れた本部そのまま。野家君は豪快にビールを飲んでいます。福井の美浜からやってきた遠来の野本君は、疲れも見せず、沢のそばでにこにこしています。富並君は同行の長男に、普段家では見せないだろうまめな所を見せています。高野君と富並君の額と野家君、野本君を見比べながら「二高は薄くなる」などと悪いことを言っている奴がいます。藤田君は、大きなスペアーリブに食いつきながら、一人で飲んだように真っ赤な顔をしています。大鍋2杯の芋煮を平らげ、まずはその場はお開きにしました。

 その晩は、二口山荘の温泉に入った後、改めて宴会です。黒田君の豪快な飲みっぷりは見事でした。ただし、布団に運び込むのに若干の苦労がありました。杉森君がかいがいしく(?)世話をしていました。

 翌早朝、朝飯前に出発し、車に分乗して二口峠を越えて山寺に抜けました。二口峠や清水峠では、新しい車の道の陰に昔の山道を見つけ、感無量なものがありました。そして、山寺の山菜そばを皆で食べて記念山行を終えました。

 さて、次に会うのはいつにしようか‥‥とワイワイ話したのですが、次の20年後では全員がこの世にいるとは限らないので10年後にしよう、しかもその年は21世紀、1週間程度の休暇も取り易くなっているだろうから大きな事をしよう、シルクロードヘ行こう、それなら今から貯金を始めよう、ということになりました。

 早速口座をつくり皆に連絡したところ、「これで10年後に期待がもてる」「是非実現しよう」などと返事があり、田中君から振込がありました。

 今後の10期生の活動にご注目下さい。

平成3年OB会報NO22より抜粋