巻機山わはは血風録 |
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電子メールは人を怠け者にする。今年のOB山行の相談は、メーリングリストで1月下旬から始めた。しかし、山域と日程がほぼ確定したのは9月下旬だったし、山行の前日まで集合場所や誰が鍋を持っていくかなどの相談を続けていた。今年われわれが目指すことにしたのは、深田久弥が上越国境の「隠れた美しい山」とたたえる巻機山(1967メートル)。日程は、吹雪かれてもおかしくない10月最終週の週末になった。金曜日(24日)から休めるメンバーは麓のキャンプ場で芋煮をする予定だ。 関東組は早朝、佐藤が車を出し、伊田と北村をひろって関越自動車道を北上した。出発前の天気予報によると、登山を予定する土曜日の降水確率は50%。どうなることやら。と、和歌山から参加予定の平田から携帯に電話が入った。大阪駅で金沢行きの特急に乗り遅れたという。仕方がない。越後湯沢で温泉につかり、酒とエッセンの買い出しをする。遠望できる越後三山はじめ、国境沿いの山は見事に真っ白だ。昨日いっきに積ったようだ。 「乗り遅れたら東京経由の新幹線で来れば早かったのに」と平田に言うと、「出張サラリーマンだらけの新幹線に、山に登る姿でいたくなかった」と話した。確かに理解はできる。 麓の清水集落から登ったキャンプ場についたのは午後5時半近く。晩秋の山麓は一気に暗くなりはじめた。テントを張り、焚き火をし、エッセンを作る。みんな手際がよい。大鍋の芋煮を火にかけている間に、バーベキューセットで焼き肉をはじめ、ビールや日本酒、ワインが回る。いろいろな話で盛り上がるが、実は重要な議題が残っているのだ。 巻機山をピストンするコースタイムは8時間。冠雪しているので余裕をもって6時には出発したい。だが、関東組の最後の1人、小泉が越後湯沢に来るのは7時半なのだ。結局、迎え要員1人を残して出発し、後発組は登れるところまで登ることにする。ジャンケンで負けたのは……私だった。 土曜日は快晴になった。越後湯沢駅では、小泉のほか、静岡から車で駆けつけた森川とも合流できた。午前8時過ぎには登山口に到着し、後発組3人は2時間強遅れで出発する。 灌木と笹の中を歩き、井戸の壁と呼ばれるジグザグの急登を越えると、焼松(5合目)の小平。正面に米子沢の核心部の滝が連なって見える。深田久弥も音をあげたという檜穴の段を過ぎ、7合目になると俄に視界が開けた。「核心部また一つ越ゆ七竈 浩之」。すでに一面の銀世界。カラフルな登山者たちが列をなしているのが遠望できる。やはり、われわれは最後発組なのだ。 前巻機山(ニセ巻機)につくと、いよいよ巻機本峰が見える。なだらかな斜面が印象的だ。木道を鞍部まで下ると、9合目の小屋だ。「木道の根雪となれぬ雪なりき 浩之」。 凍てついた池塘を眺め、ゆるやかに登ると、御機屋と呼ばれる稜線に出た。越後三山がくっきりと見える。中ノ岳から八海山に続く尾根が、ぐっと落ち込むオカメノゾキが荒々しい。一年生の秋合宿でばてた記憶がよみがえった。 ここで先発の3人と合流した。「巻機山頂」の看板を囲んで写真を撮る。風が冷たい。早々に小屋まで戻って地図をよく見ると、最高峰の巻機本峰は「山頂」の看板の地点から少し奥にあることに気づいた。先発の3人が「お前らは巻機に登ったとは言えないな」と冷やかす。「稜線で教えてくれよ」との言葉を飲み込み、「いや登っているよ」と強弁した。そんなことに気づかぬほど、稜線は平らだし、気温は低かった。小屋の前は風もなく穏やかで、温かい珈琲をいれて一服する。周りには、20人ほどの団体を含め、多くの登山者が憩いでいる。 さあ、あとは下るだけだ。新雪がクッションになって足を下ろすところを気にしなくてすむ。「うたた寝の山けとばして下りけり 浩之」。ワンゲル下りをがしがしやって登山口の桜坂駐車場に戻ると午後2時40分だった。コースタイム8時間を、6時間半で歩いたことになる。40歳近くとはいえ、まだまだ俺たちも捨てたもんじゃないな。と思ったら、私はけっこう腰に来てしまった。膝が痛むという奴もいる。大急ぎで今晩泊まる「五十沢温泉ゆもとかん」に向かい、温泉と宴会で疲れをねぎらった。ちなみにこの宿の名物、混浴大露天風呂にいた女性の年齢層は言わずもがな。ただ、新米の魚沼産コシヒカリはさすがに大満足の旨さだ。 不参加メンバーのうち、荒田はインドネシア勤務中。小松は体調不良。森は急遽、身内に不幸があった。長谷川と松沢は連絡が取れなかった。やはり、直前まで詳細が決まらないような山行では駄目だと深く反省したので、来年(2004年)の山行はすでに確定している。日程は7月30日〜8月1日、目指すは平ケ岳。憧れの山頂に挑む。 |
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