黒部源流 読売新道 縦走

22期(昭和58年卒)石川 勤

期間   8月10日〜8月13日(8月9日富山泊)
メンバー 21期:千田、冨士原 22期:手塚、石川 ゲス卜:久保田(東京農工大OG)

 今回の縦走メンバーのうち千田、手塚、石川の3名は1980年夏合宿黒部パーティーのメンバーです。当時の夏合宿では黒部源流の沢歩きを主体に13日間のコースでしたが、このエリアを行きつくすことは出来ず2000年を過ぎてから何度か再訪してきました。これまでのコースを地図に記入すると以下のようになります。

 :1980年夏合宿  黒四ダム → 東沢 → 水晶岳往復 → 雲ノ平 → 高天原 → 立石 → 奥の廊下 →
           赤木沢 → 薬師沢道 → 黒部源流 → 鷲羽岳 → 双六岳 → 新穂高温泉

  : 2004年 折立 → 薬師沢道 → 赤木沢 → 黒部五郎岳 → 真砂岳 → 湯俣
  : 2008年 折立 → 薬師沢道 → 赤木沢大滝往復 → 祖父沢 → 雲ノ平 → 高天原往復 → 双六岳
  : 2011年 折立 → 薬師沢道 → 赤木沢 → 薬師沢左股下降 → 薬師岳往復 → 折立
  : 2018年 折立 → 薬師沢ピストン → 黒部五郎岳 → 双六岳 → 新穂高温泉
  : 2019年 折立 → 薬師沢道 → 雲ノ平 → 水晶岳 → 赤牛岳 → 黒四ダム

 毎回薬師沢を通っていますが、ここ(右俣左俣出合付近)ではイワナ釣りをしています。2008年には20匹以上釣れたのですが今年の釣果は6匹でした。

 寄る年波に勝てずこの数年重い荷物を持っての沢歩きが難しくなり、今年のコースは行きそびれていた水晶岳から赤牛岳を縦走するコース(読売新道)にしました。この尾根は東沢と黒部源流の分水嶺であり、高天原を深い山に囲まれた地にするために欠かせない存在です。ここから流れ出す温泉沢は黒部最奥地の高天原に温泉を提供しています。眺めてビールを飲み、風呂に入るだけでなく是非とも歩かねばと何年も前から考えていました。

 このコースは全て道歩きで危険なところも無く中高年登山向きですが、唯一の問題が3日目の行動時間が長いことです。水晶小屋にテントサイトがないため、雲ノ平のテンバから奥黒部ヒュッテまで1日で行かなければなりません。

 2004年の山行で2日連続14時間行動になって体調を崩した苦い思い出があり、行動時間が長過ぎるとメンバーの合意が得られません。なんとしても計画上のコースタイムを短くする必要があります。そこで一計を案じ企画を通すために昭和52年版の『アルパインガイド』に登場してもらうことにしました。昔のガイドのコースタイムは最新版より短いためです。これによれば雲ノ平から水晶岳までが3時間5分、水晶岳から赤牛岳までが2時間15分、赤牛岳から奥黒部ヒュッテまでが3時間25分と合計9時間以内に収まります。最新版の『山と高原地図』では行動時間が12時間になっていましたが、このことに他のメンバーが気づき騒ぎ出したのは山に入ってからのことでした。私は「不都合な真実を隠していたな」とメンバーから非難されもしましたが後の祭りです。

 さて、実際に歩いてみると雲ノ平を4時半に出発して赤牛岳に着いたのが12時頃、奥黒部ヒュッテ着が17時前なので休憩時間を引くと10時間で歩けていました。経験的に現在の我々の実力は、登りはほぼ最新ガイドブックのコースタイムとおり、下りになるとそれよりかなり速いのです。今回のコースは赤牛岳から先はひたすら下りなので、ここで登りでの遅れを取り戻せためでしょう。平地はどうかというと黒部ダムから奥黒部ヒュッテの間を1980年は重い荷物を持って4時間半で歩いでいますが、今回は同じルートの逆コースを6時間弱かかっているのでずいぶん力が落ちていることがわかります。

 さて、この39年の風貌の変化はというと上が昭和の学生、下が令和の中高年です。
一人だけ太って髭が生えています。

昭和の学生
令和の中高年

 コースタイム談議でページを費やしてしまいましたが、読売新道自体の赤牛岳以降の整備が他の登山道に比べ十分とは言えず歩き辛い道でした。ただ、この長大な登山道を登る登山者も何人かいたのには驚きでした。奥黒部ヒュッテを早朝に出発し水晶岳の手前でビバークすると話をしてくれた人もいました。

 今回の山行は4日間ずっと晴天で素晴らしい景色を堪能することが出来ました。黒部を一度も雨具を着ずに歩けたのは今回が初めてでした。今年でしばらく黒部はやめようかという話が出ていたのですが、山はまた来いと言っているかのようでした。

 なお、それなりのダメージがあったようで、千田は下山から2日後に虫垂炎を発病し入院してしまいました。

水晶岳をバックに赤牛岳への登り


 水晶岳の右に笠ヶ岳、左に槍ヶ岳が見える。(千田撮影)
赤牛岳は真夏の北アルプスにしては人が少なく、静かな山行が楽しめました。

令和元年OB会報NO50より抜粋